昼間、聴診器を借りられないか、と静信が医院を訪ねてやってきた。そのとき敏夫はひとりで控え室に詰めていたが、少し考えた後に、一応備品だからと断った。別に使っていない聴診器などいくらでもある。けれども、それはひょいと抽斗から出てくるようなものでもない。昼休みにかかるような時間ではあったので、探しに行ってもよかった。しかし控え室から出れば看護婦と事務員、診療時間外でも構わず待合室にいる患者(と呼ぶには健康体すぎる者もいるが)たちと鉢合わせるだろうし、もしも院内になければ自室には確実に学生時代使っていたものがあるが今度は孝江と会う可能性がある。手渡す先が静信であることなどいくらでも伏せられるだろうが、要するに敏夫は面倒臭かったのだった。そうか、とだけ言って、ほんの少し背を丸める静信があまりに残念がっているように見えたので、あるかないかの良心もさすがに痛み、敏夫は机上に置いていた自分の聴診器を見せてやった。貸してはやれないが、と付け加えると、静信は笑って頷く。せめて診療時間外に来てくれれば、とは言わずにおいた。静信も用事と用事の合間にやってきたのだろう、着物であるのがその証拠だった。

「あら、敏夫くん」
「こんばんは、遅くに済みません」
 夜半、寺を訪ねた。説明するまでもなく、昼間のことがあったからだった。茶の間を覗けば美和子が夕餉の片付けをしており、静信は寺務所にいる、と教えてくれる。自室の方がいいような気もしたが、どちらにせよ一度そちらに出向けば間違いないだろう。正面から上がらさせてもらいます、言えば、別にここからでもいいのよ、と美和子が上品に、しかしからかうようにして微笑んだ。子どもの頃はよくそうしたものだ、靴を放り投げて、手も足も汚したままで、寺の中で何が催されていようと大声で駆け上がった。思い出し、苦笑する口元を隠す間に、また鈴のような笑い声がりんと庭に響く。
「お茶を、持っていきますから」
「お構いなく」
 ひとつ頭を下げ、心なしか早足になった。田舎だから、幼少の頃のことを知る者はいくらでもいる。否、尾崎の息子のことなど知らぬ者は村にいないだろう。寺の息子も同様だ。当然、意識したことはなかったが、二人が幼馴染みということはそういうことだった。今になれば笑える程によくわかる。老人たちにすればこれ以上ない話のネタであっただろう。何とはなしに、そんなことを思いながら歩いていると、敏夫、と少し驚いたふうの静信の声に呼び止められた。ぼうっとしていた自分に気づき、敏夫は声のする方にぐるりと頭を向ける。
「よう」
「どうしたんだい」
 鉛筆を削っていたらしい静信は、手に一本の鉛筆とカッターを持っていた。副業である執筆の方をやっていたのか、と知れたが、室内に足を踏み入れる。
「邪魔したか」
「いや、丁度息を抜いていたところだよ。大丈夫」
 言いながら、静信はカッターの刃を仕舞い、鉛筆を鉛筆の群れに戻した。敏夫は適当に椅子をひとつ選び、背凭れに胸を押し付けて坐り、ごろごろとキャスターを転がす。室内着に着替えている彼は、寺の若御院ではなく、先程敏夫をからかった美人の息子であり、小説家の室井静信であった。執筆用に使う眼鏡が、いつものそれと違った顔に見せているのかも知れない。
「あと少し早く来れば、ご飯、食べられたのに」
「それはまあ、惜しいことをしたな」
 敏夫は美和子の作る料理がすきだった。それは静信も知っている。
「それで? 何かあったのか」
「ああ、いや、……これ」
 ごろごろと近づいてきた敏夫に気を許したのか、静信は話をしながら次の鉛筆を手に取った。芯を削りながらでも会話は可能だ、そのような雰囲気であると判断したのだろう。だから敏夫が、原稿用紙の上に、無遠慮に古びた聴診器を置いたときに、はたと動きを止めざるを得なかった。沈黙。敏夫は意図せず顔を俯かせる。
「昼間に、見せてもらったものとは少し、違うね」
「ん」
 これはおれが学生時代に使っていたもので、と言えばいいだけのところを、敏夫は何故か噤むことで代えた。最後の診療が終わってそそくさと母屋に引っ込んでみれば、存外にすぐそれは見つかったのだった。だから昼間に、彼が来たときに出してやるのも、特別難しいことではなかったのだと思うと、妙に心が重い。そんな心中を察してか静信が、ありがとう、と笑うのも、あまりに見透かされているようで余計に恥ずかしい。後頭部を掻きむしるようにすると、先程聞いた美和子と同じような笑い声がおちる。鉛筆を置いて、聴診器を手に取った静信は、親指と人差し指の腹で黒いチューブを挟み、するりと滑らせた。
「必要だったんだろう?」
「え、……うん、そう」
 ぎし、ぎし、と敏夫は背凭れの上で組んだ両腕で椅子を軋ませる。途端言い淀んだ静信が気になって、そういえば聴診器を見にやってきた理由も聞いていなかったのだと気がついた。さして忙しい時間でもなかったろうに、随分と適当な扱いをしてしまったものだ。幼馴染みが故の気安さであることは静信もわかっているのだろうし、だからこそわざわざ夜になってやってきた敏夫に驚いたのに違いない。恐らく、書いている小説で聴診器の描写が必要になった、とか、そういう理由であるはずだ。先を続けず、ひょいとイヤーチップを耳孔に入れて得意げな顔をする静信を見るに(話を逸らしたいのだろう)悟って、同時に(勝手におれのことを書いているな)とも思う。この外場にいる限り、書籍以外で医者の知識を手に入れようとすれば尾崎を訪ねるより他にない。しかし寺は孝江の天敵であり、そのことは静信も幼い頃から心得ている。大学から戻ってきた敏夫は、小説家室井静信にとって非常に有り難い生ける医学知識なのかも知れなかった。
「これがチェストピース、こっちがダイアフラム面、裏がベル面」
「よく知ってるな」
「それぐらいなら本にも書いてあるけど、重さとか、手触りとかは、本じゃわからないからね。だからちょっと触ってみたくて。昼間は無理を言って、済まなかったと思っているよ。……と、言われたくないだろうことはわかってて言うけれど」
「お前なあ」
 自分の心音を聞きたいのか、静信は喋りながら聴診器を胸にあてる。うまくいかない、という顔をするので少し、位置を調整してやった。どっ、どっ、と聞こえたのだろう、目を輝かせて子どものようだ。敏夫は思う。そして、
「……ああ、そうか」
 思い出すのだ、子どもの頃は医院にあるものを使って遊ぶことなどしなかった。記憶にないだけで、実はそんなこともないのかも知れないが、すぐに引き出せる範囲にこのようにはしゃぐ幼馴染みの笑顔はない。村中で遊び回っていたように思っていたが、そんなこともなかったのだな、とこの歳になって考えることがあるとは思いもしなかった。この歳になったからこそ、なのだということについて、敏夫はあまり考えないように努める。
「やるよ、それ」
 それはおれが学生時代に使っていたものだから、と、また言わずに済ませた。恐らく静信はわかっている。申し訳ないよ、必要なものじゃあないのかい、そういう無駄な言葉は用いない。幼馴染みの気安さだ。開け放している窓から入る風が腕を冷たくなでていき、もう季節は変わるのだろう、と思う。
「ありがとう」
 医者のように聴診器を首から下げて笑う静信に、似合わんな、と敏夫も笑った。








20100927