よく晴れた夜だった。昨夜まで続いていた雨で北山だったか、とにかく門前の方で何かしらの噂が流れていると耳にはしていたが、土砂崩れがあったというわけではなく、単にそろそろ危ないのではないか、そういう程度の井戸端会議だ。寺の地所には数年前に整備が入っている。しかし持ち得る知識では、その整備内容が災害に対していかほどの回避効果があるものなのか知れない。信明の采配であったし、寺の者もあまり首を突っ込んでいないように見えた。十数年に一回ある恒例行事のようなものだ。静信も幼い頃に、立ち会ったようなそうでないような、非常に断片的な記憶だけなら持ち合わせていた。
「こんばんは」
「おや、若御院。珍しいですね、……と、お客様に言うことじゃあなかった」
「構いません、ほんとうに久し振りですから」
 クレオールには路地からの光がほぼ入らない。それでなくとも、もう遅い時間なので、照明に頼り切った店内はうすぼんやりとまるで蝋燭でも灯しているかのようだった。静信は笑って、空いた席に腰を落ち着ける。店主の長谷川は自らの失言を恥じるようにしながら、食べていきますか、と訊いた。
「いえ、お酒を少し、いただこうかと」
「ご希望は何か?」
「前にいただいたバーボンは、まだありますか」
 はい、と心得たように頷いて店主はグラスを用意する。前回訪れたのは相当前のことだ。静信自身もその日付を正確に思い出すことが出来ない。それでもそのときに、彼が注文した酒の銘柄を記憶しておくぐらいのことは、こうして店を営む者にとっては必要なことなのかも知れなかった。静信も、昨年誰それの法事はいつだったか、と問われれば答えることは容易だ。恐らく、そういうことなのだろう。
「ロックでよかったですか? 確か前も」
「はい。ほんとうによく、覚えていらっしゃる」
「職業病ってやつですね」
 洒落たコースターと共に給仕されたグラスには美しい琥珀色が満ちていて、暖色の照明と混じるようにしてテーブルの上に妖しい模様をおとした。つ、と側面を指先でなぞればつめたく、吸い付くようにして水気が爪に含まれる。誰もいないのをいいことに、入り口近くに置かれたソファ席に陣取ってしまったが、誰もいないので余計に、カウンターにでも坐ればよかったと少し後悔した。店主と喋るにも距離があるので自然、お互いの存在を意識しながら黙っていることになってしまう。落ち着かないわけではなかったが、ふいに身なりを正そうとシャツの襟に手を。坐り込んで背もたれに持っていかれた背中の布に手をやったときに、ふと、
「セブンスター」
 敏夫のにおいがした。
「おや、若御院は煙草だめなんでしたか」
「ああ……いえ、吸いませんが、だめということでもないですよ」
 その銘柄が多くの喫煙者に愛喫されていることは知っていたが、静信の知り合いのうちでそれを常に手にしているのは幼馴染みの彼くらいのものだ。会えば煙草を吸っているような敏夫であるので、その煙はいくら嫌ったとしても覚えがあった。
「よかった。それにしても鼻がよくきく、先程まではそちらに、」
「敏夫が?」
 食い気味に言葉を重ねてしまった所為で、長谷川は一瞬面を喰らったように目を丸くしてから笑う。
「ええ、まるで探偵のようですね」
 言われて、静信は自分の耳が少し熱くなるのを感じた。からかわれたような気もするが、それは別段構うことでもない。かろん、と鳴る目の前のグラスを手に取って口をつければ、恐らく数ヶ月と同じかおりと味がした。明日は特に法事の予定も入っていなかったはずだが、やることがないわけでもない。副業の方も切羽詰まった締め切りはないが、こちらもやれることはいくらでもあった。ほんとうならこんな時間に外出をして酒を飲んでいる場合でもないのだろうけれど、何となく出てきてしまい行く宛てもないので立ち寄った、それだけなのだ。けれども思い出す、ここに坐って、同じバーボンを出してもらって思い出した、と言う方が正確だが。
「お一人で、一杯だけ引っ掛けていかれましたよ」
 敏夫はここの常連だったはずだ。そうして、彼がここに初めてきたのは、静信が今と同じソファ席に一人沈んでいたときのことだったのだった。
「そうですか」
 言いながら、手の平で温めた酒を喉に流し込む。目を閉じれば、あの日夜の早い外場を歩いていた彼の足音が聞こえるようだ。ここは何かの店なのか、と知りもせず堂々と入ってきた彼が扉を開けた瞬間に、敏夫だ、と気づいたのは事前に連絡を受けていたからだったのか、そうでなかったか、今ではもう曖昧になってしまったので口にはせずにいる。大学病院から彼が戻ってくるとの報と、彼の父親の訃報はほぼ同時に飛び込んできた。そのとき静信は、どうにも表現し難い感情に襲われたものだ。懐かしい、ついこのあいだのことなのに忘れていた。外場では時間の流れが遅い。日々に何の変化もないからだ。にも関わらず記憶の隅に寄っているそれは一体、どのような意味があるのかと逡巡、しかしすぐに止めた。深く息を吐くと、同じだけセブンスターが鼻孔を突いてくる。
「若先生と若御院は幼馴染みと聞きました。似るんですかね、同じ席ですよ」
 何でもないふうにして、思うにそれはほんとうに何でもない口調で、長谷川が言う。この店は、敏夫が戻る頃に出来たのだった。物珍しさに立ち入った静信と、都会から実家に戻ってきたばかりで、散策ついでに見つけたのだろう新しく見慣れぬ店に入った敏夫が、ここで数年振りの再会を果たしてしまったことを彼は知っているのだろうか。静信は、グラスを温めながらカウンターの奥を見遣り、
「幼馴染み、ですからね」
 言って、外灯すら満足に取り入れない店先のステンドグラスを、夜空でも見上げるように熱心に、注視するのだった。








20100922