夜の墓地を抜け、医院へと向かう。控え室の消灯を確認し、庭木を迂回し、植え込みを避けて、奥へ。目指す先に明かりが見え、安堵した。遠目に、レースのカーテンが開いているのが見えて、珍しいことだと思いながら近づく。
 ガラス窓に軽く握った拳を打ちつけようとしたとき、すぐ目の前、腰よりも下に敏夫の顔があるのを見取って静信は驚いた。
「よう」
 見上げるようにして、彼はほんの少し狼狽した静信を笑う。
「驚いた」
「だろうな、そういう顔だ」
 気をつけて見てみれば、静信の前にガラス窓などなかった。カーテンと窓を開け放し、夜空を視界に入れられるような位置に敏夫は坐り込んでいたのだ。習慣というのはふいに恐ろしい。いつも通り、ガラス窓を叩けば部屋の中程でテレビを見ているか本を読んでいる彼と目が合い入室が許可される、今日もそれと変わらないとばかり思っていたものだから、たいして磨かれてもいないガラスさえ見失う。
「星でも見ていたのかい」
「おれがそんなロマンティストに見えるか?」
「……他に思いつかないから、訊いてみたんだけど」
 ははっ、笑いながら、敏夫は随分と機嫌がいい。立ち尽くしたまま、入り口を塞ぐ彼を見下ろすばかりの静信は、その手にグラスが持たれていることに気づいた。
「飲んでいたのか」
「悪いか」
「そんなふうには言ってないだろう、……酔ってるな」
 グラスの中の氷は殆ど溶けている。随分長い時間、中身を入れ換えずに坐り込んでいるらしい。恐らく只でさえ水で割っているのだろうに、もう酒の味もわからぬほど薄まっているに違いない。まわりにボトルも見当たらないので、注ぎ足し注ぎ足し飲んでいるわけでもない。じ、と自分を見つめる視線に気がついたのか、敏夫は緩く組んでいた脚の片方を身体に寄せ、ささやかに室内への道をあけた。
「グラス、氷、あとボトル」
 いち、に、さん、とそれぞれ異なる場所を指し示し、手持ちのグラスを空に。お前も付き合え、と据わりかかった目が言っている。
「うん、あがるよ」
 静信は引っ掛けていた靴を丁寧に脱ぎ、敏夫の脚を踏んでしまわないようにしながら室内に入った。指し示されなくても、この部屋のどこに何があるのかは大体わかる。からん、と氷がグラスに滑り込む音が心地いい。窓の外を向いたまま背を向けて、特に夜空を見上げるでもない敏夫は黙っている。何をしに来たのか、とは問われない。勿論用事があって訪ねることもあるが、そうでないことも多い。緊急のことなら当然静信から話を持ち掛ける。よって、敏夫は無言で酒を喉に流すのだ。
「……薄い」
「見ればわかるよ、貸して。いっしょに注ぐから」
「おれの酒だぞ」
「うん、御相伴にあずかります。貸して」
 言って、手を伸ばせば敏夫も同じようにした。笑っているようで、近くで見れば存外に目が据わっている。これは酒の所為だけではなく、何かあったのだな、と静信は思った。病院で何かあったのかも知れない、患者にまた延々と世間話をされたのかも知れないし、母親との折り合い、嫁との距離、飄々としているように見えて尾崎医院の院長、尾崎敏夫はそれなりに諸々と事情があった。彼の手から、ほぼ水しか入っていないように見えるグラスを受け取り、静信は室内にあるテーブルまで戻る。置き去りにされていたボトルを見て、違和感を覚えた。
「敏夫、これ」
「なに」
「親父さんの書斎から拝借して来たものじゃなかったか」
 旧応接間ではなく、自宅の方の。問い掛けても、彼は何も言わない。
「大切な日に飲むんだと言って、取っておいたのだろう?」
「いいんだ」
 でも、言いかけて静信は口を噤む。既に開けてしまっているのだから、このウィスキーが密閉状態に戻ることはもうない。言っても仕方のないことだ、思うのだけれど、いつか彼がいたずらに笑って「くすねてきた」なんて言っていたときのことを考えると、今がそのときではないような気がしたのだった。そんなのは、静信の都合であり、聞かぬだけで敏夫にはそれ相応の理由があるのかも知れない。頭ではわかっていても、そうしてそれがどんなにか些細なことだとわかっていても、何だか、厭にわだかまった。
「……ひとりで開けるのは、正直なところ何だかな、とは思っていた。でもお前が来たから、もういいよ」
「ぼくを言い訳に使うのかい」
「ものは言いようだな」
 胡乱な目がちらりと静信を見る。相当に酔っていると見て取れた。落胆とも微笑ともつかない溜め息をひとつおとしながら、静信は乱暴に封の開けられた酒瓶を手に取る。ずっしりと重く、それは単なる質量だけではなく年月すら含んでいるように思われた。思い至り、片方のグラスに氷を追加する。酒を割るためだけに用意された水も、先に多く入れた。そこに少しだけ、申し訳程度にウィスキーを注ぐ。あんなに酔っていれば気づかないだろう。明日が休診日なのかどうか、副業を中断して気分転換に出てきてしまった静信には知る術がなかった。原稿用紙に没頭していると、つい先程まで覚えていたはずの日付まで失念してしまう。
「敏夫、」
 折角の気分転換、しかも相当に上等な酒が目の前にある。静信は自分の分をロックで注ぎ、水かどうかわからないようなグラスの方を彼に、
「敏夫……?」
 渡そうと、振り返ったときには既に、敏夫はだらりと床にはべっていた。ここまで来たのだから愚痴のひとつでも聞いてやってよかったのだが、それを伝える間もなく室内で目を覚ましているのは静信ひとりだ。聞こえよがしに溜め息、当然反応があるわけもなく、静信は手に取ったばかりのグラスを置いて敏夫に近づく。すうすうと規則正しい寝息を立てる彼は、子どものような顔で寝ていた。
「不用心にも程がある」
 この外場で、この時間、尾崎を訪ねる者など、兼正があってないようになってしまった今、寺以外にあろうものか。あるとすれば急患の知らせだが、電話が鳴れば敏夫は瞬時に目を覚ます。よってそのような心配など、不必要この上ない。わかっている、ただ何か口にしたかっただけだ、と自分に言い聞かせる。それこそ不必要だとひとり笑いながら、窓辺に向かう。ぴくりとも動かない癖に、胸だけが上下に呼吸を繰り返していた。りん、と気づけば、虫の声だけが冴え渡っている。すべての生きとし生けるものが寝静まる程の深夜ではない。しかし外場の夜は早い。ここから朝までは長いのだった。数十センチ距離を置いて、立ち止まり、踞る。今朝には剃ったはずの髭が目立つような時間だ、静信は思わず自分の顎に手をやって、直後自らその行動に笑ってしまった。窓から入る風は涼しく、それは夏の終わりを思わせる。静信は半袖からすらりと伸びた右腕を、敏夫の頭に向ける。ず、と彼の髪は硬く、あまり長さのないそれは指にもまとわりつかない。
「寝てないんだろう」
 え、と思わず声が出た。寝ているはずの人間からは出るはずもない、はっきりとした調子で、静信は瞬間動けないままに、
「静信、帰ってちゃんと、お前も、小説ばっか、書いて、ない、で、」
「うん」
「最近は夜も、冷える、布団を蹴るな、むかしみたい、に、」
「うん」
 そのままそっくり君に、思いながら、やはり寝惚けているようなので、その隙にと髪をまぜくりかえした。こうやっていつ起きるかわからない、敏夫は昔からそういう男だ。寝ているのかと思えば寝ていないと言い張り、思わぬタイミングで睡眠におとされる。惚けて唇など寄せずにおいてよかった、静信はただ、そんなことを思う。
「窓は閉めて、帰るからね」
 言い置いて、自分の為に注いだウィスキーを手に取る。彼が眠ってしまったのなら、ベッド脇に置かれた煙草に手をつけてもよかった。しかしそれはまた別の機会にしよう、笑いながら、静信は酒を手に敏夫の傍まで戻る。何があったのかなんて明日に聞いても答えは得られないだろう。だとすれば今は、例えば髪をなでるくらい、許されるのではないだろうかと思うのだ。
「星なんて、ないじゃないか」
 敏夫の腹を背もたれに、夜空を見上げた静信はそうひとりごちた。








20100920