普段は出されていない卓袱台を勝手に引きずり出して、教科書と参考書を広げていた夏野は、入室以来一度も顔を上げずにいた。勉学に励む為の環境を変えにわざわざやってきたのであり、それ以上の意味も用事もないのだから当然だった。常に出されているガラステーブルは今日に限って雑誌の山で埋もれている。片付けてやるのも時間がかかるし、置き場所を知っているのだったら新しい机を出した方が早かった。ただ室内にはもうひとり人間が在室しているのであり、そして彼こそがこの部屋の持ち主として家主から認められている男であるので、床面積の幾分かを占領されていることに対し不服を申し立てても何も問題がない。ないのだが、彼はそうしない。特に不服ではないからだ。テレビに向かいテレビゲームをする、それが叶うのなら自室が自室たる意義は既に成り立っていた。
「徹ちゃんってさ、晴れ男なの」
 手に持ったコントローラーを動かす主人公の手に見立て、しかしどうにも上手くいかない、と思ったところで声が掛かる。背中越しだが、その目がこちらを向いていないのだろうことはわかっていた。
「なんで?」
 気のない返事だ。視線を画面に固定したまま、徹は答える。
「別に、……何でもない」
「どした?」
「いいって、もう何でもない」
 おかしなことを言った、聞き流せ、夏野の声色がそのように切り替わったのを聞き取って、注意がそちらにいくのは仕方がない。一声目では確実に何かしらの疑問が投げられていたはずだ。晴れ男、の意味が他にもあるのだとすれば、何かしら、だが、徹には他が思い浮かばない。テレビゲームの中で奮闘する徹はたった今手を離せば現状よりも手に負えない事態になりそうだったが、それはいくらか、何度でもやり直しがきくのだった。
「よくないって、夏野らしくないぞ」
「……何が」
「言いかけてやめるとか、しないじゃないかそういうの」
「そんなことない」
「夏野、」
「だから名前で呼ぶなって」
 約一年前に近所に越してきた彼は、ふたつ年下の男子高校生だ。都会からやってきて、都会へ戻ることを目標とし、受験勉強に余念がない。徹は彼よりふたつも年上だったが、先生役を務めてやれる程の気概も学力も追いつかなかった。それに関してお互い、思うところは特にない。
「おれって晴れ男なの?」
「……だからそれを聞いたんだろ」
 徹が四つん這いにずるずる近づくと、夏野は暑苦しいと言わんばかりの横目でそれを見てからおもむろに止まっていた手を動かした。テレビとベッドのあいだに無理矢理設置した卓袱台にはすぐ手が届く、つまり殆ど這う必要もなく、徹は振り返るだけでよかったのだ。
「おれに聞かれてもわからんよ」
「そう、だったらいい」
 背後からはテレビゲームの音楽が軽快に流れ出し、室内を駆け回るように踊っている。積極的に黙しようとする夏野とは相容れないようではあったが、拗ねた子どものような表情は文字通り拗ねた子どもにこそ似合うものだ。徹はすとんと腰を落ち着けて、顎を卓袱台の縁に乗せた。ふう、と動く手に吹き掛けた息は、払い除けられるようにして床へとおちる。
「邪魔すんなって」
「それはこっちの台詞だ夏野。おまえがおれのゲームを止めた!」
 年下に随分とした扱いをされながらも、徹は笑った。彼がそうさせているから、夏野もそう振る舞う。意識的にしろ無意識的にしろ、数ヶ月のうちに、そのようなコミュニケーションが成り立っていた。ととと、と机上を歩かせていた徹の人差し指と中指に、生暖かい溜め息が降る。もうわかったから、言わんばかりだ。
「……徹ちゃんと会うとき、雨降ったことないなって思って」
「確率の話か?」
「違う、勉強の話じゃない。天気の話」
 卓袱台に付けていた顎を上げるため背筋を伸ばし、そうするとようやく勉学の中断を決意したらしい夏野が代わりのように床へと転がった。一瞬ベッドに乗せた頭も体重に負けてずるりと落ち、ごと、と肩が畳にぶつかる。
「今年の夏は暑いから、そういや雨もなかなか降らないね」
「だから、」
「そういう話だったら、おまえの方が晴れ男なのかも知れんよ?」
 そういう話じゃない、夏野は思ったが口にしなかった。転がった先の床が存外に心地よく、その労力を躊躇わさせた。徹の言うようにこの夏は暑く、都会のようにビル群のない田舎とはいえ、続く暑さにはそうそう抗えるものでもない。目を閉じた夏野は、おそらく笑っているのだろう徹の顔を思い浮かべる。明るい陽光の似合う男だ、と思っていた。彼に雨のイメージがないのもほんとうだった。
「夏野、寝るのか?」
「寝ない。……あと名前で呼ぶな」
 くつくつ、と喉の鳴るような気配だけがして、しかし夏野はまだ目を閉じる。いつか目が焼けるのではないか、いつかその陽は絶えるのではないか、漠然としたイメージだけがぽかりと浮いては沈んだ。あまりに抽象的なそれらは、芸術家じみた両親から譲り受けたもののようでむず痒かった。
「そう言うな。夏の野っぱらみたいでさ、いいじゃん。暑いけど風が通って、気持ちよさそうだ」
 だとしたらこの名は、あんたの方が相応しい。晴れた空の下で、誰も彼もに好かれて笑っているような、その足が夏の野原を踏むのなら、この名はあんたのだ。いつの間にか顰めていたらしい眉と、そのあいだの眉間を押されて、それでも夏野は目を閉じていた。このまま寝てもいい、夕飯の頃に起きればいい。夕日の射し込む室内は赤く、夏野のまぶたを焦がす。シャープペンシルを握り締めたままだった手が、弛んでいきながらも何故か、震えるような気もした。
「夏野、」
 太陽の声が呼ぶ名は果てしなく、けれども必ず有限である。日が暮れれば姿を隠し、そうして夜明けまで口を噤む。そのようにして日は巡り、この暑い夏もいずれは過ぎるだろう。夏野は思うのだ。彼に、夜は似合わないと思うのだ。茜射す畳の上では、いまだテレビからのゲーム音楽が快活に跳んでいた。








20100917