前後で何の話をしていたのかさっぱり覚えていないが、きっとたぶん何も話しちゃいなかったんだろう。俺はガスコンロの前に立って今から使うフライパンに油を馴染ませているところだったし、古泉はひとつ前の飯時から放置しっぱなしだった皿という皿を洗っていた。ふたりなのにどうしてシンクを埋めるだけの食器があるのかというと、調理時に使用する鍋やフライパンはいくら数が多くても許せるが最終的にそれを盛りつける皿の数は極力減らしたい派と、その対抗派閥に属する人間がひとりずついるからだ。どちらがどちらかはまあ、今はいいだろう。
「どうか、お気を悪くされないでくださいね」
「何だ」
 決して広いとは言えないキッチン、振り返ればすぐ後ろにはユニットバスと洗濯機が仲良く並んでいる。幸い、ガスコンロとシンクのあいだにはなけなしの調理台があるので、俺たちは数十センチの距離を置いて、それぞれの役目に没頭しているはずだった。彼はこちらを見ずに、話し出す。美しい両の手は平べったい皿を乱雑に洗い続けていた。
「あなたは、頼むから死んでくれと言われて、その願いを叶えてあげられるひとが、いますか」
「……そいつの為に死んでやる、って、ことか」
 俺は熱を持ったフライパンに、適当な大きさに切った豚肉を放り込む。火が通ったら一回皿に出したいのだが、今古泉が洗っているやつでいいか。ふと視線をやれば、今から続けてこのフライパンに飛び込む予定の野菜たちは洗剤にまみれて、かなしそうにこちらを見ていた。まったく、いつものことだが、皿洗いくらい上手にやってくれないものかね。シンクに身体を密着させ体重を預けてしまっている所為で前面は雨にでも降られたように濡れている、見ていられないので目を逸らした。
「そうです。僕には、それが例えどんなに理不尽な理由であったとしても、承諾出来る相手がこの世に三人います。父と、母と、それから涼宮さんです」
「おまえ、」
 肉の脂が焦げ付いて、ざり、とフライパンを削る。もう結構長いこと使ってるからな、そろそろコーティングもあってないようなものかも知れん。菜箸の先で突ついてやると、茶色く変色してしまった豚は必死の力で抵抗、いかん、このままでは指がつりそうなので降伏しておこう。後でまた古泉が戦ってくれるだろうからな。
「すみません、そのようなこと、願うはずがないとわかってはいるんです。極端な例でしたね」
「極端すぎる。失礼だ、ご両親にも、ハルヒにも」
 彼は洗うことも不得手である上に、乾かすことも不得手だ。一人暮らしなら充分なサイズであろう、皿の水気を切る為のカゴを活用することが出来ない。要するにその範囲内に整頓しながら皿を収めつつ次の皿を洗う、ということが難しいようなのだが、今から俺が調理をする食材たちの隙間に恐る恐る洗った皿を挟んでくるのはやめてくれ。たたでさえ洗剤が飛んでいるというのに、まあいい、それは今使ってやる。フライパンの所為なのか火力の所為なのか俺の不注意の所為なのか過分な焦げ目を付けられてしまった豚肉を、まだびしゃびしゃの皿に乗せようとすれば、それに気付いた彼は慌ててキッチンペーパーを引き抜いて水分を拭った。そんなところだけ配慮されてもな、先に蛇口捻って水止めろよ、まあ構わんが。
「僕には烏滸がましい」
「そうじゃない」
 項垂れる古泉の頭を叩いて、選手交代だ、野菜に火を通すあいだだけフライパン係を任せてやる。うっかり調理台を占領しそうなびしょぬれの皿たちを水切りカゴに整列させ、俺は腕まくりをした。続きの洗い物を請け負う為だ。じぶんの好きな順に洗うからそういうことになるんだまったく、箸やらコーヒーカップやら、細かいものから洗って並べていけと前にも言ったはずだがな。もう寒い季節でもないのにわざわざ温水を出していた蛇口を切り替え、野菜をじっと見つめている彼は見て見ぬ振りだ。火も調節したし、そっちはちょっとやそっとじゃ焦げないからな。
「父と、母と、…彼女に対して僕は、その覚悟があるんです。でも、あなたはだめだ」
「………」
 あーあ、茶碗がひとつ欠けている。これはたぶん昼間に、シンクの底も気にせず放り投げてしまった所為だな。なんだかしらんが突然そういう気分になってがっついて、彼が慌ててそうしたからなのであり、俺の否に違いない。黙っておこう。ただこのまま素知らぬ振りで乾かしてしまっては、次に彼がこれを手に取ったとき怪我をしてしまう可能性もなくはない。俺だって忘れてるかも知れないしな。おざなりに内側を食器用スポンジでこすって、すすいで、すみっこに避けておくことにした。後でどうにかするさ。さすがに今そっちまで手を付けたらよくない、ひととして。
「いっしょにいたいから、だめだ」
「だから、そうじゃないだろう。お前は家族以外の誰かを特別にすることに抵抗があるだけだ」
 古泉がこちらを視線を寄越そうとするので、菜箸を握り締めるだけだった手を、もうだいぶぐったりとしてきた野菜を混ぜるように誘導してやった。手を拭う暇がなかったので当然彼の腕にも泡がついてしまったわけだったが、気にしていないようなのでいいだろう。ついでに忘れていた換気扇のスイッチに手をのばすと、我先にと彼の手ものびてきた。こんなとこで争わんでいい。ごうんっ、と動きはじめたそれに、いい加減フィルターを取り替えてやらねばならんことを思い出す。
「かぞく」
「簡単に心をやってしまうことに、嫌悪感を抱いている。それは別に、おかしなことじゃない」
 ざっと洗い物を済ませ(どうこう言ってもふたり分だ、時間はかからない)フライパンの中身をぐちゃぐちゃと掻き混ぜるその横から調味料を投入した。取り敢えずそれらがひとところに集まってしまわないように拡散させ、古泉は特に俺の許可も求めず先程皿に避けた豚肉をぽいっとその中に放り込む。いや間違っていないからいいんだが、せめて菜箸を反対の手に持ち替えてからにしろよびっくりするだろさすがに。しかしどうにもぐちゃっと、してるな、なんでだ、お前俺が見てないあいだに水でも入れたのか。まあ、野菜の水がちゃんと切れてなかったんだろうな。
「違う、僕はあなたが好きだ」
「責めてんじゃない、それでいいんだ。お前が俺の為に死んだりしないなら、それでいい」
 肉の焼けるにおいが今回は、換気扇に吸い込まれていく。結局ぐちゃっとしたままの野菜炒めを大きめの皿に盛るよう指示して、炊けたばかりの白米と、豚肉の前に温めておいた昼飯の残りのカレーと、冷蔵庫からペットボトルをふたつ。まあ充分だろう、夜中に腹が減ったらコンビニという選択肢が俺たちにはあるし、食ったらどうせそんな選択が必要なくなるほど没頭することだってある。そしたら結局また腹が減るわけだが、朝でもいいさ、行こうぜ、コンビニ。見た目に反して食欲のそそるにおいをまき散らす油と豚肉と野菜と調味料。それを手にした彼は、俺の顔を見てひとつ唇を舐めた。







20090324