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砂糖じゃないの「一夜限り」シリーズ、susが続きを書いてみました。






 自らを根源とする海に溺れるのは容易い。吐き出すものが、既に塩分を含んでいるのであれば、いくら外から真水が流れ込もうとも濃度に劇的な変化はない。母なる海がどのようにして地球上に存在するに至ったか、そんなことはどうでもいい。今の及第点は、注がれる真水が例えば彼の労るつもりで差し出された左手であったり、例えば彼の優しい口調であったりすることだ。それがどんな意味を持っていたとしても、広大な海を薄めるには足らず、下手をすれば彼自身を干からびさせてしまうかも知れない。それは避けたかった、引き込んで塩漬けにすら出来ないのならば、
「干からびて、しまいますよ」
 そっと扉を開けて、こちらを窺う彼の気配。俺が大人しく寝ているかどうか確かめたくて覗いてみたら、子どもみたいに大泣きしてるもんだから引くに引けなくなったんだろう。その声が酷く穏やかで、嫌だ。嗚呼なるほどな、吐き出し続けて渇れるのはこちらの方ってわけか。俺は不自由になってしまったからだを精一杯動かし、近くに転がっていた枕がわりのクッションを彼に向けて投げた。叩き付けられたそれが、よく出来た顔の上で跳ねて落ちる。散った水しぶきがまるで彼を真水であるように錯覚させるが、そんなものはただの精液と唾液と塩分の欠片だ。
「危ないなあ」
 そう言って、口元を歪めた彼に、信じられないほど腹が立った。それが笑顔かと問われれば容易く肯定など出来ない表情で、嘲るのは俺か彼自身か。前者であったなら俺は、もしかするとただ泣き続けるだけで済んだかも知れないし、蝗のようにベッドから飛び出すこともなかったかも知れない。ぼすん、とクッションが湿った音を立てて床に落ちた。素っ裸のまま駆け寄るのは相当滑稽で出来ればやりたくなかったが、そんなことを気にしていられない程、全身の血という血が煮えくり返ったようにぶくぶくと泡立ち渦巻いている。勢いよく駆け出した所為で、片足にシーツが絡まった。そんな足枷で邪魔が出来ると思うなよ、と尖った感情を目前に迫る彼へとぶつけるのはそれはもうお門違いだってことはわかってる。わかったところで血がのぼった頭は冷やせない、思春期真っただ中をゆく高校一年生、感情の起伏をなめるな。
「ふ、ざけるなあああああ!」
「なっ…、」
 裂けるのではないかというくらい引っ掛かったシーツを引っ張って、足首がいかれたな、と思った。しかしそんな激痛も気にならない。ようやく俺の右手は目的の襟ぐりを掴み、彼がクッションをわざわざ顔面で受けた真意に気付いたのはその直後だ。両腕に抱えられている、真新しい洋服。汚れないように、そっと、
「殴っていただいて、結構ですよ」
 彼の後頭部が、衝撃に耐えられず揺れ、背中をつけていた壁に叩き付けられた。にも関わらず、表情は先程よりも明確に笑顔だ。いつもと変わらない微笑みで、殴れ、と言う。まるで、ずっとそれを望んでいたかのように、覚悟を決めた目の光。
「言われ、なくてもっ」
 ふざけるなふざけるなふざけるな、欲しいものも手に入らない、身体はどこもかしこも怠い、極めつけには求めてきた側が何も得ていないと認識している事実。ふざけるな。俺は思い切り右腕を振り上げ、こんなに全力で他人を殴りつけるのは初めてだと他人事のように思いながら、彼の頬目掛けて右ストレートを放った。鈍い音がして、彼の身体がぐらりと崩れる。振り抜いた腕をだらりと垂らしたまま、倒れ込む彼の姿を見送った。感慨など何ひとつない。小さなうめき声を聞いた瞬間、引っ込んだはずの涙が戻ってくる。
「いっ、てえなあ!」
 ぶわあ、と溢れるもので前が見えなくなったそのとき、突然足元をすくわれた。予想もしなかった事態に脳は混乱を極め、何が起こったのか理解したのは彼と同じように床へ突っ伏してから。鼓膜を震わせた音がどこから降ってきたのかもわからなかった。自分の声ではない、という事実が信じられないくらいだ。後方へ倒れ込んだ為に、背中を酷く打ち付ける。背骨が折れた、というのは少々大袈裟だが、少なくとも昨晩のあれこれよりよっぽど現実的に感じられた。抗議の声をあげたのは俺でないなら彼だ。そしてその左脚が、まるでのびすぎた雑草を刈り取る鎌のように、俺のくるぶしを蹴り飛ばしたのだった。漫画のように吹っ飛んだついでに床の上を転がった為、ベッドから引き摺り下ろしてしまったシーツはうまい具合に身体へと巻き付く。転がって転がって行き着く先がベッドの脚だったのは最も予想外であり、こめかみを打ち付けた痛みは真剣に死を考えさせるに充分だった。走馬灯のように、思い浮かべたのは、昨晩の彼。
「…おい、古泉、その服寄越せ」
「はい」
 男二人、お互い一発ずつでグロッキー。同じように床に転がっているなんて、情けないにも程がある。こめかみの痛みを押し戻し、もう何がきっかけで泣いているのかわからないまま、泣き止むのも面倒で、声を掛けた。すみませんすみません、と膝を抱えて呪文を唱えるように懺悔をしている彼は、歯切れの悪い返答を寄越した後ゆっくりと立ち上がる。
「悪くないな」
「何が、です」
 よろけた足取りで近づいてきて、顔の横でしゃがみ込んだ。余っているシーツで乱暴にぐしゃりと頬を拭われたがそのままにしておく。恐る恐る触れられるよりはよっぽどマシだ。殴って蹴られて、答えが出るなんて馬鹿みたいだが馬鹿なんだから仕方がない。それが正解かどうかは答えの冊子を持っていないから照らし合わせることが出来なくて、俺たちの前には元々それを欠いた参考書しかないのだ。間違っていることがわかるなら、他に解答を導く方法を模索する以外何がある。勉強は学生の本分だ。遊びで海に溺れている時間は、そんなにない。だったら、
「次は、本気でこい」
 自らを根源とする海に溺れるのは容易い。それは同時に、満ち引きを加減するのも容易い、ということだ。数秒の沈黙のあいだに、俺はシーツを手繰る彼の手首を掴む。血の流れが滞ってしまったかのようにその肌が冷える頃、いいでしょう、と古泉が笑った。






20071108