手遅れだ、と気付いたのが、酔いがさめたまさにそのときだったので、それはもう手遅れ以外のなにものでもなかった。家飲みにしよう、という彼の提案を蹴ってしまった自分がいけないのだといくら戒めたところで取り返しがつくはずもなく。僕はもう大人しく状況対応に徹さなければならないというこの、突きつけられた事実がどれほどのものか、容易な想像を許さないのがこれまた彼のすごいところだ。酒を飲んで羽目を外す、という行為がそもそも平凡なものであると言われてしまえばそれまでだが、そのレベルが如何様なものであれ、相手に与えるダメージを考慮して欲しいとここまで真摯に願ったことは今までにない。
 まあ、酔っぱらい相手にいくら頼み込んだところで、そもそも無駄な努力であることは承知の上ではあるのだけれど。
「それは、塩ですよ」
「見りゃわかる」
 呂律が回っている、のが、余計にたちの悪さを際立たせた。先ほどから彼は延々と僕の手の平の上に塩を振っている。そろそろ店員のお姉さんを呼んで中身を補充しなければならない程だ。しかしながらそれは肌の上で山を成してはおらず、何故かと言えば彼が割と自由な動きで塩を振っているからに他ならない。左手の平にはそろそろ白い丘が出来そうではあったが、右手では机に散らばった粒をかき集めているのでそちらの方がよっぽど立派な山を形成しはじめていた。
「魔除けとか、そういう」
「そんなことしたら消えてなくなるのはお前だろう、かわいそうに」
 ああ、はっきり喋ってはいるがやはり彼は酔っぱらっている。この際彼の振った塩で僕が消えてなくなろうがどうしようがそれはまあいい。塩の小瓶を魔法の粉のように振りまくその手元には、ビール大ジョッキ八つプラス、ジン系のカクテルが入っていたはずのものが五つ(彼がジンを好むとは意外ではあったが、そんなささやかな発見に浮かれている場合ではなかった)日本酒三つプラス焼酎四つ。どうして僕は途中で止めなかったのか、それはついさっきまで僕も匹敵するくらいのグラスを空けていたからである。店員に止めてくれと乞うのもおかしな話であり、よってやはりこの責任は僕と彼にあるということだった。
 握り込めるほどまで育った塩の山を見届け、とうとう底をついた瓶に関して彼は特に不満もないようで、次に手をのばしたのは、
「醤油はどうかと思いますが」
「酢なら問題ないか」
「出来れば、固形のものが有り難いですね」
 そうか、と神妙に呟いた彼は、仕方がないとでも言わんばかりに前のめりになっていた身体を一度後方へ戻していった。向かい合わせで手を机上に差し出していた僕は、飽きてくれたのだと思い引っ込めようとしたのだが(皮膚と接着している塩は既に固形ではなくなってきている)(体温が上がりじっとりと汗をかいているのは何も酒のせいだけではないだろう)突然動き出した彼によって、それは勢いよく阻まれる。
「えっ」
「大人しくしてろ」
 まったく何やってんだ、と、どうして怒られているのか考える隙を与えぬほどに、彼は酷く優しいかおで僕を叱った。酔っている彼の言動は、いろんな意味で心臓をいちいち締め上げてくる。たまらない。
 かたまった僕に気をよくした彼は、何を思ったのか手元にあった箸袋を細かく裂きはじめ、裂いたそばから塩山の上に落としていった。何をしているんだろう、と推測したところで意味を見つけられるはずもなく、されるがままになっておく。二袋分裂いた彼は(一度暴れて箸を落としたのでもう一膳もらった分だ)満足げに塩に覆いかぶさる紙を見つめ、それを握り込むよう僕の指を一本ずつ折り、最後にぎゅうっと両手で包んで、ちゅ、と、
「なっ…」
 おまじないのように、小鳥のさえずりのように、唇をあてた。
「なにをして、」
「よし、帰るぞ!」
「は?」
 ぽんぽん、と僕の握りこぶしを軽くたたいた彼は颯爽と立ち上がり、近くにいた可愛い店員さんを捕まえて、さっさと会計を済ませてしまう。立ち上がることも出来ず、手を開くことも出来ず、開いたらいろんなものが逃げていってしまいそうでどうしよう、どうしようどうしよう。細く切られた紙はすぐに塩漬けになるだろうと思った。しかも汗でとけるのだ、酷くしょっぱいに違いない。
「お前、相当酔ってるよ、家までついてくからもう少し頑張れ」
「そ、んなこと、ないです」
「見てみろテーブルの上、きれいに片付いたもんだぜ」
 視界が水の膜でぼやけているようにかんじたが、しかし彼が見ろと言うものを見ないわけにもいかない。目を凝らすと、なるほど確かに、僕は彼に左手を差し出しているあいだ、右手で机上のありとあらゆるものを整頓していたようだった。箸を机のふちと平行に並べ、空いたグラスも背の順に列をなしている。使用した調味料の類いも例に漏れず、彼が先ほどまで振っていた塩も当然のことだった。こぼした酒も食べ物も一切の染みなく拭き取られ(取られ、と言っても僕がやったらしいのだが)皿は大きさを揃えて積み重なっている。
 癖、なのだ。これは僕が酔ったときの癖だ。
「これも、どうせ覚えてないよ、困ったもんだよな」
「そんな、こと、は」
 とんとん、と指先で、いまだ握りしめたままの僕の手を突ついて、彼は笑った。僕の酒癖を把握している彼、酔っていることを知っていて僕の手にキスをした彼。これだけ飲んだのだから相当な額だっただろう早く払わなければ、と、思ったところからの記憶がない。手遅れだったのは、僕の方だったわけだ。

 朝、頭痛の治まらない額を押さえながら、携帯を探って鞄に突っ込んだ手が、戻ってきたときには砂糖まみれで、いやしかし携帯はどこだときょろきょろとしている僕を、水を片手にキッチンから出てきた彼は、溜め息まじりの笑顔で、







20080322