この夏、俺たちのあいだに秘密がひとつ出来た。それは、女子団員に今後一切迷惑を掛けぬよう考えに考え抜いた名案であったわけだが、その秘密の所為で、俺たちには生傷が絶えない。週に一回、曜日は決めず、どちらかが呼び止めれば理由をつけて部室に残る。勿論それで、ハルヒが不機嫌になったり、朝比奈さんが残念そうにしたり、長門がほんの少しでも哀しそうにすれば、本末転倒も甚だしいので即中止だ。女子団員が俺たちの居残りを何事もなく認めたとき、ゴングは鳴る。
「火曜日の朝、僕は直前まで閉鎖空間に出向いていたんです」
 大抵、先制攻撃は古泉の方だし、そうなれば当然、呼び止めるのも古泉の方が断然回数が多かった。ちなみに今日は木曜日だ。
「ハルヒといっしょにいたのに呼び止めた、あれか」
「そうです、前にも言ったじゃないですか、涼宮さんには見られたくないんです」
「仕方ないだろう、登校中にあの坂で、ハルヒと合流するかどうかなんて俺には検討もつかん」
「先に合流されていたのはあなたなんですから、僕に、声をかけなければ済む話でしょう」
「追い越しそうになったのに無視すんのか? おかしいだろ」
「寝てなかったんです、学校へ来るのも精一杯なのに、あなたが彼女の気を逸らしてくれればそれで、」
「あのなあ、お前と登校中に遭遇する確率も俺にはわからんのだ。そんなに機転がきくような男に見えるかよ」
「見えません」
「…疲れてたかどうかを判断出来なかったのは悪かった、しかしあいつも、もう見慣れてんだろ、お前が朝怠そうにしてるとこぐらい」
「彼女が見慣れるかどうかは問題ではありませんよ、僕が見られたくない、と言っているんです。前にも言ったでしょう覚えてないんですか」
「覚えてる」
「でしたらもう少しくらい、配慮してくださってもいいでしょう。弱ったところを見られたくないのは男としておかしいですか」
「いや、おかしくはないさ。なんつーか、そこまで気にしなくていいんじゃねえのとは思うがな」
「あなたに何がわかるんですか。朝起きてから家を出るまでに一時間もかからない癖に」
「それこそお前には関係ないだろうが」
「こっちは寝る間も惜しんでるというのに、暢気でいいですよね」
「寝る間も惜しんで世界を守ってる、ってか?」
「どこまで僕を馬鹿にすれば気が済むんです」
「それはこっちの台詞だな」
 この夏、俺たちのあいだに秘密がひとつ出来た。それは、女子団員に今後一切迷惑を掛けぬよう考えに考え抜いた名案であったわけだが、その秘密の所為で、俺たちには生傷が絶えない。お察しの方もいるかと思うが、二回に一回はこの後、殴り合いの喧嘩へと発展するわけだ。おそろしくくだらない、子どものような喧嘩。それが必要であることに俺たちは気が付いた。味方を得るにはまず味方から、おかしなことだがそういうことで、俺たちは、SOS団を守る為に、ありとあらゆる感情をすべて曝け出すことに決めたのだ。特に、憤りや怒り、軽蔑や絶望、負方面の気持ちは一切溜め込むことを止めた。高校生男子というのは存外に単純な生き物なので、こういうのはストレートな方がいい。いつか爆発しちまうんじゃないかって、普段は何ともないのに少しずつ積み重なっていく何かがあるとして、それを先に減らしておくことが出来るなら、気付いた時点でやっておくべきだ。俺たちはこの先も何年かは、いや、覚悟だけで言うなら死ぬまで、共にいる心意気なので、解散の理由が内側にあるのだけは避けたい。そういう話し合いをして、こういう殴り合いの喧嘩になっている、そう考えると俺たちは相当馬鹿だな。
「今日は、僕の、勝ちです」
「馬鹿か、次は負けねえよ」
 結局いつも、最後の最後には何が発端で掴み掛かったのかも忘れている。完治していない青痣の上からフック、っつーのはちょっと、趣味が悪過ぎやしないか。俺が蹴り付けた太腿をさすりながら古泉は、ファーストフードなら奢りますよ、と笑う。やれやれ、と鞄を手にして部室を出る俺たちは、その後必ず寄り道をして買い食いをして、まさか喧嘩をしたばかりだとは思えない和気藹々さでもって帰路へと着くのだった。夕陽が眩しいな、と思うのはちょっと青春が過ぎる。

 俺は至って普通の高校生男子なので、いくらふたりで取り決めた秘密とは言え、思い返せばやりすぎてしまったと反省し申し訳なることが多々あるのだが、古泉の方はと言えば、これまでに一回もそんな素振りを見せたことがない。翌日、階段から落ちた、と、俺と長門以外の人間にすればトラウマを掘り起こすような言い訳を使用して傷の成り立ちをぼかしつつ、昼休み、古泉の教室を訪ねた。彼はひとりで暮らしているので北高生以外に追及されることもないだろうが、実のところ俺の家族に「階段から落ちた」は通用せず、すべてバレている。母親は「喧嘩するほど仲がいい」と笑っているので相手が誰だかまで予測がついているはずだ。そしてそれは当たっているはずだ。階段から落ちてどうして明らかに人の爪でこしらえられた引っ掻き傷が出来るのかなんて俺にもわからん。ひりひりと痛むそれは、相手にも大体同じようなものがあるという証拠だった。九組にいる、古泉以外の知り合いに(おかしなことに一年で五組だったやつが三年で九組にいる、まったく忌々しい)お前また階段から、と笑われているところに、随分時間をかけて自分の席から扉までやってきた古泉の登場だ。ご自慢の顔の左下四分の一を、おたふく風邪のように腫らしている彼を見てやはり、すまん昨日はやり過ぎた、そう言うはずだったのだが、
「どうしました、何かご用ですか?」
 あまりに穏やかに笑うその表情に、昨晩から用意していた謝罪も忘れ、ぽかんとしてしまうのはいつものことだった。

「謝りませんよ、僕は」
「知ってる」
 財布を持って出てきていた古泉は、当然のように俺を食堂へと連行し、昼飯を教室に置いてきたから帰る、と言っても、奢ります、と言って聞かなかった。座るところを探している途中に、こちらに向かって大きく手を振るハルヒを見つけたので合流することにする。三年にもなればそりゃもう有名人な俺たちは、ちらちらと微妙に痛い視線を浴びながら、しかしそれにも慣れてしまったので会話を続けながら足を進めた。古泉が、早口で喋り出す。
「感謝してるんですよ」
「なにが」
「あなたが、僕に、正直になる機会を与えてくださったこと。だから謝りません」
 しっかり聞いていないと聞き逃しそうなそれは、ところどころ生徒たちの喧噪に紛れて、散っていく。俺の方を見ない、謝らない古泉は、笑顔だ。
「与えたんじゃないだろ、俺たちふたりで決めたことだ」
「そうですね、僕たち二人で決めた、秘密だ」
 ふい、と、俺に視線を寄越した彼は、
「でも実はまだ、ひとつ、曝け出していないものがありまして。けれどもそれは、殴り合わずに済むようになったときか、僕が、」
 そう言っている途中で、頬の腫れを目敏く見つけて突進してきていたハルヒ(俺も古泉の方を見ていたので気付かなかった)に「ちょっと古泉くん、なにそれ随分と男前じゃないの!」と情報爆発並みの笑顔でもって顔を両側から引っ掴まれ、その拍子にB定食をまるでコントのように引っくり返し、なんだかよくわからんが大惨事になってしまったので、僕が、の続きは聞けなかった。
 けれども、それが気になり過ぎて俺が憤って、古泉を放課後の部室に呼び止めるようなことになったなら、さすがに彼は謝るような気がする。いや、なんとなくだが。味噌汁を頭から被った古泉を見ながら、俺は大慌てで片付けをはじめる彼らの手伝いもせずに、そんなことを思う。







20081012