さて俺に、そこまでする必要があったかどうか、その答えは誰も知らないし(ここで神のみぞ知る、とかふざけたことを言ってはいけない)知られていては正直困るので例えほんとうに誰か知っていても答えるんじゃない。俺は、誰かに問い掛けているわけじゃないからな。強いて言えば、差し出された手が、予想以上に冷たかった、それだけだ。目の前で人が死ぬと言い出したら誰だって駆け寄るなり救急車を呼ぶなり何かしらの対処を取るだろう、そういうことだ。  自分で答えを出してりゃ世話ないな、しかし繰り返すが、俺は人死にを出す薄情さも余裕もないのである。齢十五で、人生にいらんトラウマを残したくはない。

「寒く、ないんですかあなた、そんな格好で」
「ないな、今日はそんなに気温も低くないだろう、見てみろ」
 と、俺が指し示した先では、三人娘が腕を組んでまるで跳ねるように帰り道の坂を下っている。長門は引っ張られているだけにしか見えないが、朝比奈さんは揺れるたびにコートとスカートの下からおみ足を晒しながらふええとかひゃああとか妖精の悲鳴のような何かをしきりに発していらっしゃる。三人して素足で、というか女子生徒は皆そうであるのだが、寒くはないのだろうか。女子高校生のスカート丈の統計など取ったことはないので知らないが、うちの学校は少々短い気がするな。いや待て、変な意味で言ったのではない、単純に寒いか寒くないのかの話だ。
「女性と男性とでは、体感温度が違うのではないでしょうか」
「寒さに任せて適当なことを言うな」
 そんなことを言われましても、と横で古泉が背を丸めて肩を震わせる。そんなこともどんなことも言ってない、俺がいつお前に無理難題を言いつけた。その後も何かぶつぶつと呟き続ける彼を半ば無視して、俺ははしゃぐあまりに後方の男子団員のことなどすっかり忘れ遠くへ行ってしまった団長はじめ三名をぼんやりと見た。帰り際、ハルヒと少々言い合いをしてしまい古泉の肝は随分と冷えたらしいが、俺はきちんと大人の対応をもってその場を切り抜け、あの灰色空間だって発生していない様子である。しかし現在の彼はそれをまだ根に持っているようにしか見えず、さむいさむいと言う合間に気を付けてくださいよとか全くこれだからあなたはとかおい聞こえてるぞお前実は今そんなに寒くないんじゃないか。
「寒いです」
「そんな薄いコート着てるからじゃないのか、洒落たつもりかも知れんが、そんなもんで寒さはしのげないぞ」
 制服のしわが浮いて見えるような薄手のそれ。確か寒くなりはじめの頃も同じものを着ていた記憶があるので、もしかすると一着しか持っていないのだろうか。転校前はどれだけ暖かいところに住んでいたと言うんだお前は。
「近郊ですよ」
「そんなことを聞いているんじゃあない」
 厚さが最もはやくわかりそうな襟ぐり(合わせの部分は開けているし、寒いと言うわりにマフラーもしていないので)に手を突っ込んでみた。かろうじて裏地はついているらしいが、そりゃ寒いだろうよ、とうんざりする厚みだ。一年中春物を着続ける気か。しかし生地はなかなかいいものっぽいし、裁縫もしっかりしている、と俺が品評会をはじめたところで古泉は何故かその場で立ち止まってしまった。まだ三人娘とのお別れが済んでいない、これだけ距離が離れれば近所迷惑もかえりみない大声で恥ずかしくも名前を呼ばれる可能性だってある、立ち尽くしている場合じゃないだろう。
「あの、いえ、手を離していただけると、」
「歩けなかないだろ」
「そう、ですが、」
 酒でも飲んだのか、という足取りで歩みを再開させた彼は、右手と右脚を同じタイミングで出したりしていてどうしようもない。しかたなくコートのブランドを把握することを諦めた俺は布から手を離し、前に向き直ってからポケットに両手を突っ込んだ。着衣を直すような仕草をする古泉が気にかかったが、依然彼の両手両足は右左をばらすことを知らないらしく、放っておくことにした。
「て、」
「あ?」
「あなた、手、あったかいんですね」
 そのとき俺の口から出た間抜けな発声の描写は控えさせていただこう。お聞かせしたところであなたの人生の素晴らしい一ページになどなりませんからご安心を。俯く古泉の耳が若干赤みがかって見えるのは、この急な坂に燦々と降り注ぐ偉大な太陽の織りなす美しい夕焼けが視界全体を覆っているからということにしておく。あーあー、お前のせいで遥か遠くのちっちゃなハルヒが諦めもはやく全力で手を振っているではないか。一瞬睨んでやると、俯かせていた頭をさらに下げて、すみませんと言った後、揃って前方に手を振り返した。
「じゃあな! また明日!」
 聞こえたかどうかわからないがこういうのは発声すること自体に意味があるのだ。長門と朝比奈さんも小さく手を振っているので大丈夫だろう、これで明日の朝ハルヒのお叱りを受けることもあるまい、となりに証人もいることだしな。
「ほれ、お前もちゃっちゃと歩け」
「はい、でも、今のは、あなたが悪いんです」
「なんでだよ、人の所為にするな」
 両頬に手をあてながら、さむいさむいと再び繰り返す古泉は違和感のかたまりでしかなく、当然頬が赤くなるほど寒くはない本日、日本語を間違えているとしか思えない。それともまださっきのあれを根に持ってるのか、らしくもない。と、考えたのは一瞬で、俺の興味は再び彼のコートへと戻っていた。
「ああ、だからその、コートだがな、」
「なにか文句がありますか」
「なに拗ねてんだよ」
「拗ねてなんかいませんよ、失礼ですね」
 犬のように一度頭をぶるっと震わせた彼は、古泉一樹のあるべき振る舞いを思い出したのか突然優雅に背筋をのばし歩き出す。ハルヒと別れてからそんなことをしても意味がないだろうよ、と思いつつ、少し先を行こうとするその背中を見て、先程言いかけた内容に確信を持った。となりに並ばなければいけない決まりもないので、ぼんやりと後ろから声を掛ける。
「やっぱお前、トレンチコートとか似合うよ」
「なっ」
 やっと取り戻した優雅さをかなぐり捨て、古泉は相当おかしな顔をして振り返りそのままそこに立ち尽くす。そういうのはせめて坂を下り切ってからにしてくれないか、急に目の前のやつが止まるとこっちも危ないだろうが。
「そんな薄いのじゃなくてさ、あるだろ、冬用のトレンチも。黒かな、いやお前背高いから優しい色のがきつくなくていいな、ベージュとか、」
「!!!!」
 硬直する古泉に激突しながら(不可抗力だ、嘘だと思うなら一度我が校を訪れこの坂を登り切ってみるといい)言おうと思ったことを矢継ぎ早に言ってやった。受け止める熱があったのでこれなら転がらずに済む、と安堵したのもつかの間、
「って、おわ…!」
 突然(本日の古泉一樹は総じて所作の全てが急である)目の前の壁がなくなり、俺はとても情けない声をあげながら体勢を整える羽目になった。どうしてそんなことになったのかと言えば、足元に彼がうずくまってしまったからだ。頬ではなく顔面全体を手の平で覆い、ううとかああとか、変な声を漏らしている。
「な、何なんだ危ないな、そんなに寒いのか」
「い、いま」
「は?」
「死にそうです、たいへんだ、僕は死んでしまう!」
 まったくもって様子のおかしい古泉を放って帰れるわけもなく、大体こんな通学路ど真ん中で生徒に現状を見られてしまっては明日からの俺の立場が危険だ。どう見たって俺の所為で泣いているようにしか見えないし、それだけならまだしも死ぬとか言っている。本気で寒いならちゃんとそう言ってくれれば、マフラーのひとつぐらい貸してやらんこともないのに。毛糸のそれは俺の熱のおかげであったくなっていて、身を切るような思いで古泉の頭に乗せてやると彼はまた、
「あ、あなたは僕を殺す気ですか…!」
 と、こともあろうに叫んだ。馬鹿か、俺は齢十五の人生にトラウマはいらん。

 結局古泉を殺さずに保護することを選んだ俺は、家でホットミルクまで振る舞う羽目に陥っていた。手袋をしていなかった彼の手は尋常でないくらい冷えていたし(その割りに顔は赤かった、風邪でも引いていたらもっと厄介だ)その手に触れることになってしまったのは、彼がなかなか立ち直らずうずくまったままだったからだ。リビングに引っ張り込み客用椅子に着席させ、コートと鞄はひっぺがしてやった。
「あの、すみません、こんなつもりでは」
「うるさい」
「え」
「もうすぐレンジがお前を呼ぶ。そうしたら横に置いてある蜂蜜といっしょにここまで持って来い。カップは二つ入っているからな、熱いから気をつけろ」
 冷蔵庫の中を物色しながらそう告げると、彼はもういつもの穏やかな声で、了解しました、と笑った。

 機嫌が直ってよかった、なんて思っている俺の方がよっぽど根に持っているし、らしくもない。なんだかなあ、ここまでする必要があったかどうかは知らないが、レンジがチンと鳴るまで大人しく前で待つ古泉を微笑ましく思った時点で俺の負けだ。これもある意味、トラウマになるのかね。







20080120