ひどく間抜けな言い方になるが、僕はそのとき気を抜いていた。手に負えないほどの酩酊状態にあったわけではない、そういうことなら逆に頭も身体もすっきりとしてきたところであったくらいだ。とうに五駅分は歩いただろうか、残るは覚束無い足元だけだが、機関の飲み会はほんとうにばかな大人ばかりが集まる、とあくまで好意的な意味で思った。もう、短いとは言えない付き合いで、文字通りの戦友たち。それでも若手の部類に入る僕は、充分なほどに愛でられてここまできた。
 だから少し、酒のせいではなく、気持ちが酔っていたのかも知れない。安全であるはずがなく、市の条例で許されてもないそれを、ぼうっとした頭で。冷たい夜風が頬をなでるのが心地よく、寒い日に下ったあの坂を思い出した。みな頬をまっかにして、たのしそうに笑い、また明日と手を振った、輝くような時間だった。
 店を出た後、タクシーの相乗りを丁重に断り、住宅街を線路沿いに歩き続けている。もちろん普通の、みどり色をしていたり、黄色だったりするタクシーだった。森さんが、若いから歩いて帰れるとでも言うの生意気な、と呂律の回らない口で、けれども表情はまるで素面のようにして怒っていたのがおかしい。彼女を乗せたタクシーは今どこにいるだろうか、と息を吸い、吐く。じじ、と音を立てて明るくなる火が、街灯も暗い路地でやけに目立った。風もないから、次の駅まではもつかも知れない。空を見上げると、瞬くような星たちがこちらを見ていて、そのとなりの月が、見るんじゃありません、と、親のように窘めている気がした。
 終電もないような時間、線路沿いも静かなものだ。時折、光の漏れているアパートの一室から笑い声が落ちてくる。学生の集まりだろうか、たのしそうだな、と思った。それは波のように、大きくなったかと思えばぷつりと止み、また思い出したようにはじける。もちろん、そのような集まりを経験したことがないわけではないが、半ば家族のような機関の飲み会の方が、性に合っている気もしていた。大学に入ってからまだ日が浅いせいもある。しかしこれからのことを、考えるにはまだ時間が必要だ。おかしなはなしだ、と、また息を吸って、吐く。
 ぱ、と足元が明るくなった。街灯からの光源でないことは、それが不安定に揺らめくことから容易に推測され、車だろうか、と心持ち身体を横にやる。うまく足が動かないな、と思ったところで、近づくそれが自転車であることに気付いた。
「あれ、古泉」
 き、と真横で、不安定に僕の足元を照らしていた光の主が止まる。気を抜いて、いたのだ。咄嗟に口元へ寄せていた煙草を、そうする意味もわからないまま、背中に隠した。たぶん、きょとん、とした表情をしていたのだろう。彼はひとつ、ニコチンもタールも何も含まれていない真っ白な息を吐いて、笑った。
「なにやってんだよ」
 それはこっちが聞きたかった。はやく笑顔を作らなければ、と焦りながらも、僕はそこで、自分が思ったよりも酔っていたことを知る。ぐ、と飲み込んだ唾がいつもよりずっと苦くて、ひどく泣きそうな気持ちになった。
 彼は、スウェットの上に、パーカーを羽織って、その上から見慣れたジャケットを着込んでいる。にも関わらず足元はサンダルで、今からコンビニにでも行くのかという格好だった。しかし、おかしい。彼の家はこの近所ではなかったはずだ、少なくとも、通う学校はこちらの方面でない。引っ越しを手伝ったので、今の自分が方向感覚を一切失っていなければ、こんな終電もない時間、こんなところにいるはずもない人だった。だから、煙草に火をつけたのに。
 黙ってしまった僕を見て、彼は小首を傾げ、寒いのか鼻の頭を擦った。
「酔ってんのか」
「いえ、」
「ひさしぶりだな」
「はい」
 高校卒業、大学入学を機に、SOS団は一時的な休止期間を設けている。とはいえ涼宮ハルヒの改変能力は相変わらずであり、僕は現在彼女と同じ大学に籍を置いているが、敷地内で顔を合わせることはまずなかった。体よく言えば、今は神さまが自らに与えたモラトリアムである。彼女は、未来を見据えることに興味を持ち、それについて毎夜頭を悩ませ、またあるときは閃いたように歓喜した。解散、ではなく休止を言い渡された団員は、それぞれの意志で先を選ぶことを要求され、僕は自分の考えと希望を持った上で、涼宮さんと同じ大学に通っている。彼、は。一人暮らしを余儀なくされるほどには離れた、専門学校へと進学していた。機関的な物言いをすると、その望みは、正解だったのだ。
 そうして僕たちは、この数ヶ月間これといって連絡を取り合うこともなく、偶然に出会ってしまった深夜の路地で、ひさしぶり、なんて会話を交わしている。
「飲み会か」
「そのようなものです」
「あと、」
「法的には、許された年齢なんですよ、実は」
 と、聞かれてもいないことを被せるように言ってしまったのは、やはりどこか罪悪感があったからだろう。後ろ手に隠した煙を、彼が見逃すはずもなく、溜め息を吐きながら、ちょっと待ってろ、と自転車を飛ばして行ってしまった。
 これはなんだろう、とまだぼんやりとする頭で考える。実はみっつも年上だと明かしたところで、彼が今さら驚いてくれるとは思っていない。声を掛けてきたのが涼宮さんじゃなくてよかった、と高校のときなら思ったかも知れないが、今では彼女も、現場を目撃したところで健康を害するものはよくないと一言二言こぼすぐらいだろうと思う。角を曲がり消えてしまった背中を、突っ立ったまま見送って、隠していた手を口元にあてた。心地よいなあ、と、そして、これはゆめなのかも知れないと感じる。たかが数ヶ月ぶりの再会を、ゆめだと思いたくなるほど、僕はあの坂の上に、たくさんのものを置いてきてしまったのだと知った。
 それは、後悔ではなく、そうすべきだったのであるという、理解だ。
「待ってろ、って言ったろ」
「吸うな、とは言われてませんよ」
 彼が再び現れるまで、冷たいコンクリートの壁に背中を押しつけ待っていた。左手に持った火がただ消えていくのを見るのも惜しく、結局フィルターぎりぎりまで吸って、吐いて、を続けていたところに拗ねたような言葉がおちる。落ち着くんです、と、たぶん非喫煙者に言っても機嫌を悪くさせるだけだと知っているので、月を背中に背負った彼が、僕に何を待たせていたのか、ついでにその答えも待った。
「これ」
 と、言って彼は、自販機で買ってきたらしい缶コーヒーを目の前で開け、てっきり差し出されるのかと思いきやいっきにその中身を飲み干し、それからずいと差し出してくる。さすがにこの寒さの中、つめたい、を買う勇気もなかったのか、しかしそれが仇となりひいひいと表情には出さずとも焼けたらしいまっかな舌をちらつかせた。なにをしているんだろう、と怪訝なかおをしてしまったらしい。彼は、高校の頃から何ら変わらない重たげな瞼をもって睨み付け、もはや開き直り頬につけていた僕の左手を掴んだ。そうして、今にも燃え尽きようとしていた火は、じゅうと音を立てて水分を吸う。
 お前が煙草を吸おうが、年齢を詐称してようが知ったことではないが、ポイ捨てはいかん。と、いうところだろうか。
「わざわざすみません」
 当然、携帯灰皿くらい所持しているわけだが、ここは素直に感謝を述べておくのがいい。僕らは今までも、そうしてきた。
「古泉」
「はい」
「家は、近いのか」
「いえ、ここからまだ、三駅ほど歩きます」
 ばかじゃないのか、と、彼の表情がくしゃりと笑うかたちになる。かなしいかな煙草を喰らう羽目になってしまった空き缶は、コートのポケットに突っ込んだ。視線を下にやると、裸足の足先がまっかになっていて、急いで顔を上げる。
「あなた、ご用事が、」
「黙ってろ」
 短く言って、そっぽを向いた彼は、同じようにまっかな指先で携帯電話を取り出し、どこかへ電話をかけ(探した様子が見られない、かけ慣れた番号なのだろう)ごめん今日は行けない、そうして、少し謝ってから、また明日、と切った。
 いいひびきだ、と思う。
「よろしいんですか」
「歩くぞ、三駅」
「はい」
 彼は先ほど、後ろから、僕に声をかけた。こんな深夜に、遠く離れた自宅から、自転車を飛ばす先はもう近かったのではないだろうか。しん、と静まった住宅街で通話の声は存外によく通り、相手が女性であることは知れていた。きっと、高校のとき我は平凡であると自称していたその通りに、今でも普通の学生である彼は、まっとうに恋をし、あのかおで笑っているのだろう。その約束を蹴り、数ヶ月ぶりに会った友だちの家に行く。それすら彼の言う、平凡な思考であるように思い、泣きたくなった。
「別に、付き合っているわけじゃあない」
 お前のほうがいいよ、と笑うそれを見てしまったら、僕はとうとう後悔をはじめてしまう気がしてまた、足元が覚束無くなった。酔いなどとうに冷めているのに、森さんを乗せたタクシーは今どこにいるだろうか、と考える。
 二本目の煙草に火をつけた僕を、彼は叱らなかった。







20080220