それはとても、寒い日のことだった。
「お前、車買ったってほんとうか?」
 突然の電話、めずらしいことではないから、僕は丁重に、ほんとうのことを告げる。彼は、声には出さずひとつ頷いたらしい間をあけてから、通話を終了させた。
「ほんとうに来るつもりなんだろうか」
 思わず声に出してから、自分で笑ってしまった。嘘を吐かれたことなどないからだ。今の口ぶりからすると先週末、さすがに死ぬのではないかと思うほど酒を飲んだ彼を、車で送ったことは覚えていないのだろう。あのとき、一滴も口に含まなかった僕のことも当然覚えていないのだろうし、もしかすると出掛けた記憶自体なくしてしまったのかも知れない。それ自体は悪ではなくむしろ善である。短くはない付き合いの中で得た情報を寄り合わせれば、自然と見える手の平のうちだ。
 携帯電話を再び枕元に転がして、寝入る寸前すでに日付が変わってから三時間も経っていたことを知った。

 翌日、変わらず寒い日のこと、彼は当然のようにチャイムを押す。
「先に電話をしただろう」
「鍵ならそこにありますし、車は下の駐車場の、」
「黄色いやつだろ」
 どうしてそれを知っているのか驚いて、玄関先に立ったままの彼を見た。相手は少しだけ笑いながら、お前も結局、と言いかけてやめる。先週末乗り込んだ車の色を覚えていたわけではなく、彼はただ僕の語彙では言い表すことの出来ない動物的な直感や本能によって、それが僕の所有物であると見抜いただけのことだ。前からよくあったことで、驚く演技も出し尽くしてしまった所為か随分とぼんやりとした反応を返してしまった。期待もされていないので過不足はないのだけれど、言いたいことを言ったあとの彼は依然としてその場を動かない。
「どうされましたか、出来れば、寒いので扉を閉めていただけると、」
「お前こそどうされましたか、準備もしないで、早く行くぞ」
「僕の車を使って、どこかに行かれるのでは、ないのですか」
 ばかか、と呟いて、彼は玄関先から姿を消した。鍵を持たずに、だ。僕は結局ハンガーからトレンチコートとマフラーを引き抜いて、その後を追う。存外ゆっくりと歩みを進めていたその後ろ姿はすぐに捕らえることが可能だったので、肩に触れようかと思っていたところを横に並ぶことでその代わりとした。
「すみません」
「おう」
「ほんとうに、そう思ったんですよ。だってあなた、所有の有無しか聞かなかったでしょう」
 一瞬宙を見た彼の目はすぐに僕を睨むようにして、そのくらい、と言ったあと離れた視線は手元に落ちる。機嫌が悪いのか、と思ったがそういうわけでもなさそうだった。爪をいじるのは気分が高揚しているときの癖だ。
「どこへ行くんですか」
 僕の運転で、彼はどこかへ行きたいのだろう。慌てて掴んだ鍵を渡そうとしたら突っ返されたので運転がしたいというわけでもない。だとしたら、そういうことなのだろう。成人した男二人で乗るには少々小振りな愛車を挟んで、鍵を開ける前に僕は問うた。
「どこへでも」
 何も考えていないような表情のまま数秒、焦れた僕が鍵を解除した瞬間に彼は言う。乗り込み、エンジンをかける前から律儀にシートベルトを締める、そうして、
「出来れば遠くへ」
 と続けた。

 そうして僕はそれから一日中、文字通り二十四時間車を走らせ続けている。助手席に座る彼は、ラジオのチューニングをいじったり、窓の外にじっと視線を固定したり、たまに他愛のない会話に時間を割いて、それ以外は眠っていた。そのあいだ僕は二度彼の髪に触れたが、大半は真っ直ぐと前を見据えている。
「なあ」
「起きていたんですか」
「これ」
 横を向くことの許されない運転手を気遣ってか、左側から彼の手がのびてきた。その手の中にあるのは、これから乗ろうとしている有料道路のチケットだ。今まで寝ていたのに現在地が把握出来ることにも驚いたが(この有料道路は、都会の高速道路と違って延々と同じ風景が続いている)彼がここを通り抜けるために必要なそれを所持していることの方が疑問だった。料金所間近で思わず車をとめてしまいそうになった僕の手に、彼がチケットをねじり込む。
「やはり、今日は何か目的があって、」
「違う。夏に大学のやつと、レンタカー借りてここまで来たことがあるんだ。そんときの残りがポケットに入ってた」
 それが事実であるかどうかを問い詰めることは無粋だ。彼がそう言うのならば間違いはないし、わざわざ余っていると言われたものを突っ返す仲でもない。
「ありがとうございます」
 告げると、彼はまた腕を組んで目を閉じた。

 眠気を訴えると、サービスエリアに入るよう指示されたので従う。僕もそれが名案であると思ったからだ。カップのコーヒーをふたつ買ってきた彼は、白い息を吐きながら、薄い牛乳とたくさんの砂糖が入っている方を渡してくれた。てっきり少し眠ってからまた、と言われる覚悟をしていたところに、運転手交代の命が出る。彼が運転する車に乗ったことはなかったが、免許を持っていることは知っていたのでコーヒーを片手に運転席から助手席へと移動した。
「おい、横着するな」
「だって、外に出るのは寒いんです」
 ドアを開けることを拒否した僕は、サイドブレーキを乗り越えて助手席に移動中である。運転席側のドアを開けていた彼は、しょうがないやつだ、とも、相変わらずだ、とも聞こえる曖昧な発音で何かを発し、熱いコーヒーを飲み干していた。

「そういえばお前、就職は」
「しますよ」
「そりゃあ、してもらわなきゃ困るが」
 彼の真似をして、腕を組み目を閉じていると、柔らかい声が降りてきた。ほんとうは彼が寝ているあいだに、採用を告げる電話がかかってきたところだったが、話す声が眠い人を相手にするそれだったので、僕は結局甘えて目を閉じている。
「働いて、稼いで、この黄色い車を維持しろよ」
 はい、と答えられたかどうかはわからない。もしかしたらもう夢の中なのかも知れなかった。ごう、と冷たい風が窓ガラスを殴りつける。
「俺を遠くに運ぶのは、お前たちなんだ」
 彼がほんとうに、そう言ったのかも、わからない。優しい手が、頭をなでたからだ。


 ちなみにまだ、涼宮ハルヒの力は衰えてなどおらず、けれども僕らは今日、それについて話をすることはなかった。







20080124