「あなた、意外と猫っ毛なんですね」
 と、突然古泉が俺の髪の毛を掴んできた、何の前触れもなく、だ。彼はつい数秒前、二回の熱戦を繰り広げたポーカーに飽きた俺のために(なぜなら当然のようにこちらの圧勝だったからだ)(よって、熱戦というのは世辞であり皮肉である)次のゲームを見繕いに席を立ったはずだった。ボードゲームの類いは、日々増え続けるためにその居場所を文字通り日々転々としており、そして何がどこにあるのかまで把握していない俺は古泉任せにしつつ非常にだらけて椅子に寄りかかっていたわけだ。静かに立ち上がった彼は、いつもの柔らかな物腰そのままに、机の周りを優雅にたどり、確かにこちら側にはやってきていた。しかし背後が黒板である場所に物置などはなく、少なくとも、俺たちが興じるボードゲームは置かれていない。あるとすれば入り口側にある棚の上で、けれどもその前を通り過ぎた古泉を俺はすっかりと見逃していたわけだ。凡人の視界は限られている、耳のあたりに目でもついてなけりゃあね。自分たちの暇つぶしのために相方が動いているというのに、大口を開けてあくびをしていた俺が悪い、と言われればそれまでだが。
「あ、がっ…!」
「おや、失礼しました」
 冒頭の台詞を、なんだかやたらと感慨を込めた口調でもって頭上に落としてきた男は、短い髪を割に合わない力で引っ張りながら、やはり場に合わない花のような笑顔で自らの非礼を詫びた。と、言っても実際に詫びている様子はどこにも見受けられず、髪はまさに花でも摘み取るかのように引かれたままだ。
「離せって、痛いから」
「あなたの髪質は、もっと頑丈なものなのかと思っていました」
「ちょ、話を聞け、ばか!」
 ぐい、ぐい、と確かめるように引いては戻し、何なんだお前は何がしたい。ここにハルヒでもいれば間違いなくこの平団員兼雑用係における頭皮対頭髪我慢比べに参加してくるところだったが、本日女子団員は欠席である。彼女らは、課外活動と称してケーキバイキングにお出掛けになる直前、保身のためか男子団員に日が暮れるまでの室内活動を言い渡した。言われたところで何をするわけでもない、いつものようにボードゲームに励むだけである。そうして、それを実行していた、はずだった。今こうして副団長様が俺の、何の変哲もないただの髪の毛に興味を持つまではな。
 なかなか離そうとしない指先を引っ掴んでやろうと頭は動かさず、腕だけを振りかぶってみたのだが、手首に触れる直前でそれはふっと力を失い、よって抵抗を試みていた俺の首から上はゴムに弾かれたパチンコ玉のように前へ飛んでいった。いや飛んでいってはいない、ちゃんと身体にはくっついたままだ、安心していい。
「なっ、んなんだよ古泉! 俺が怒らないとでも思っているなら大間違いだぞ、そこへなおれ! …ったく、いってえなあ、まじで」
「え、まじで痛かったですか、すみません」
「うるさい」
「あなたが意外と、短気だったり気長だったりと、気紛れでいらっしゃることは承知しておりますよ」
 目の前にいる古泉一樹以外のみなさまにはご理解いただけるかと思うが、俺は今そういう話をしているのではない。ただ、頭を大袈裟なまでに前へとつんのめらせたその帰り、ついでに振り返ってみると彼は酷く緩んだ表情をしており、随分と変梃な顔だ、と一瞬気を取られたあいだに行き場をなくしたようにしていた右手を再度頭上にかざしてきやがった。さっ、と首を傾げるようにして避けると、さっ、と古泉も手を移動する。みぎ、ひだり、みぎ、ひだり、みぎ、なんてやっているうちに馬鹿らしくなってきた俺はとうとう諦め、薄っぺらい手の平に上空権を与えた。
「…今度は何だ」
「わかりませんか、愛でているのですよ」
 ゆるゆる、と今度は花びらを揺らすような手つきで髪の毛をかきまぜる。長い指に、本来なら引っかかるほども長くないそれは要所要所で頭皮に刺激を与え、目尻へと過剰な水分補給をして寄越した。
「いつもとは、少し違うような気がしたので、」
「お前、いちいち引っかかるやつだなほんと、…寝坊したんだよ」
 ああそれで、と変に優しい声を出しながら、古泉は絡まった細い髪の毛たちをゆっくりと解しだす。肩肘を机に預け、もう片手で椅子の背を握りしめていた俺は、彼相手にむきになることすらどうでもよくなり(一期一会それっきり、二度と会うこともなかろうと思っていた過去の人と素晴らしいシチュエーションで再会を果たした老人のような、なんというか、そういう笑顔がよくない)力を抜いて机に突っ伏した。手から逃れるためだったが、それが追ってくることもわかっている。
「たのしいのか」
「たのしいです」
 後ろから、背中に覆いかぶさるようにして古泉の熱が近づいた。その指先は変わらずに、今朝飛び起きたら既に家を出ているはずの時間で慌ててシャワーを浴び辛うじて制服は着た、という状態で出発したがために放置されこんがらがった俺の可哀想な髪の毛を一生懸命に元に戻す作業を続ける。ねむくなる指だ、違うな、これはきっと気候のせいだ。ケーキバイキングも春の苺フェアを開催する季節である、なんとかはあけぼの、とも言うではないか。たまに、両手の指が髪を解いているはずのその最中に、もうひとつあたたかい熱が首筋に触れている気がしたが、見えないのでなかったことにしよう。
「ふふ、お猿さんの、グルーミングみたいですね」
「気持ちの悪い笑い方をするな、息がかかる」
「たくさん絡まっていますから、もう少し時間がかかりますよ」
 別に頼んでやってもらってるわけじゃない、ないが、まあ、飽きたポーカーの代わりにオセロがこようとチェスがこようと、グルーミングがこようと、大差ない。
 時間がかかる、という割に、古泉は途中何度か手をとめ、ひげは生えてませんねと言っては顎を触ってきたり、爪は大丈夫ですかと言って手の甲に鼻先をあててきたりした。その全てがゆるゆると、花のような、なんとも眠気を伴う熱であり、正直このまま日が暮れて帰宅出来る時間になるのなら構わない気もしてくる。
「たまの遅刻も、悪くないじゃあないですか」
「別に、たまの、じゃないところが、何とも言い難いところだな」
「ふふ、そうだあなたはご存じないかも知れませんが、」
 また彼が含んだように笑うので、生暖かい息が肌の上をするすると滑る。春に吹く風のようだ、と思ったところで窓が開いている事実を記憶から呼び、そうだこれは春の風なのだ、と思い直すことにした。しかしねむいな、はんぱない。
「毎朝僕が教室に着く時間は、きっとあなたの後のはずですよ」
 嘘だそんなはずはないだろう、遅刻常習犯宣言をさらりと述べる古泉にくだらない冗談はよせそこへなおれ、と、告げるために持ち上げた顔は、桜の開花を待ちわびた鳥や虫たちのような穏やかな笑顔と優しい唇に、敢えなく、







20080330