かわいい、と心の底から転げ落ちたようなあまい単語と、怯えて震えるように伸ばされた手の平が、同時に、俺の頭に乗っかった。

 だから、俺は寝惚けていたのだ。目が覚めたときベッドの上にはひとりで、掛けられた声で起きたのか自ら覚醒したのかはわからないがとにかく、ひとりで。昼ぐらいかな、と思ったことだけは覚えている。
「コーヒー、飲みますか。紅茶もありますけど」
 簡素なキッチンの前に立っている彼が問うてきた。そのとき俺は、自分がどうにも酷い顔をして寝ていたような気がしていて、しかし目を開けたとき壁側を向いていたし支障はないだろういやでも彼が起きたときにそうだった確証はないとか何とか、考えてはどうでもいいなと思っていた。
「コーヒー、」
 寝惚けていたので、これは「じゃあコーヒーをいただこうか」という意の「コーヒー、」ではない。昨日この家を訪れた際、最初の方で、濃く出した紅茶と牛乳と、阿呆ほどの三温糖で作ったミルクティーばかり飲むと真摯にそして数回、説明を受けていたのだった。このワンルームのキッチンには、整頓された葉っぱたち以外生息していない、と言っても過言ではない。興味深くそれを観察した記憶、あいだに睡眠を挟んだとはいえ数時間前のことだ、よって今の「コーヒー、」は「この家にコーヒーがあったのか」という意だ。
「ドリップ式なんですが、どうにもじょうずにできなくて。酸っぱいんです」
 俺の「コーヒー、」が選択の結果ではないと気付いたらしい彼は、発言を続けることにしたようだった。それは酸味のある豆が使われているからではないのか、というのは口から出ていかない。だから、俺は寝惚けていたのだ。こちらにやってきて、ぎっ、と近くの椅子に座る。その手元にカップがあったのか、それとも机の上にあらかじめ置かれていたのかは覚えていない。酸っぱいんです、と繰り返すその言葉で、彼が普段積極的に摂取しようとは思わないはずのコーヒーを、飲んだのだということはわかった。起き上がろうと身体を支えた腕が、また沈む。ごろんと転がって、しかしこちらを向いているはずの表情は読み取れない。
「試してみたんですよ」
 そこで、飲みたくもないコーヒーを、彼が買ってきたのだと気付いた。近くのスーパーが二十四時間開いているから冷蔵庫にものを詰める必要がない、そう言っていたのも思い出した。タイミングがあるとすれば、俺が寝てから起きるまで。先に目の覚めた彼は、ひとりでスーパーに行ったのだろう。
「マフィンとおにぎりもありますよ。お腹は空いていませんか?」
 彼が笑っている、その気配だけわかる。酸っぱいコーヒーが、すべて彼の胃に流し込まれたのか、一口飲んで捨てられたのか、そんなことを思った。

 だから俺は、寝惚けていたので、
 かわいい、と心の底から転げ落ちたようなあまい単語と、怯えて震えるように伸ばされた手の平が、同時に、俺の頭に乗っかったのが、これの、前なのか後なのかわからない。







20090614