古泉一樹の爪は整えられておらず、美しくない。それは手先に限ったことであったが、彼には気持ちが不安定になったとき、両面とも皮膚に触れていない部分に歯で傷を付け、裂いたり、引き千切ったりする癖があった。加えて、幼い頃からの指しゃぶりがいまだに治らないこともあり、総じて古泉一樹の手は、美しいものではない。外観だけは生まれ持ったものも手伝い、きめの細かい肌と、程よく骨の浮いた甲、すらりとのびた長い五本の指、遠くから見れば、よいものではあった。しかし前途のような理由から、彼は自分の手を誰かと比べたこともなく、よって、誰かに注目される可能性も、考慮したことはない。

 何も涼宮ハルヒに関して、だけが古泉を不安定にするわけではなく、高校に通う限り勉学という大前提がみな平等に課されているのであり、理数系特進クラスに属するということは当然それなりに励まなければならないということでもあった。最上級生となった今、成績が悪いわけでは勿論ないものの、これまた生まれ持った精神の細やかさが手伝い彼は結構単純に気持ちを浮き沈みさせている。彼が目指す大学は北高からの推薦では進学することが出来ないので、年明けのセンター試験までは何としても学力を維持しなければならないのだ。こうなってくると最早閉鎖空間などは瑣末ごとであり、SOS団自体もまあそれなりに受験ムードなわけである。
「お前、爪がたがたじゃねえか」
 ぎり、と古泉がまた、無意識に爪を噛んでいるときだった。参考書にすっかり目を落としていた彼は、キョンが自分の手を掴んでくるのにまったく気がつかず、汗で表面の湿った肌が吸い付くように触れたところでようやく顔を上げる。引っ張られ、口元から離れた指先は唾液で濡れていて、古泉は咄嗟にすみませんと手を握り込んだ。手首を拘束しているキョンは、一瞬謝るように表情を曇らせた後、
「まあ、それはいい」
 と、古泉の指先を無理に解し自分のシャツに擦り付ける。熱気のこもる部室、夏の午後。五人は揃って(当然のようにいる朝比奈みくるは、勿論既に北高を卒業しているが)各々苦手科目克服を目指し、勉学に励んでいた。本日の活動は、それがテーマなのである。
「朝比奈さん、どっかに爪切りありましたよね」
「あ、はい、ありますよ。ちょっと待ってくださいね」
 一年生の頃から変わらぬ定位置、長机を挟んで向かい合わせに。あいだにあるのはボードゲームではなく教科書ノート参考書及び赤本の類いであったが、その他の団員においても、定位置は変わらなかった。唯一、どちらかと言えば窓際での活動が目立っていた長門有希は現在キョンの横に椅子を並べており、いくら長門でも膝の上に勉強道具一式を並べたりはしたくないだろう、というのが全員一致の見解である。涼宮ハルヒを除けば、彼女にそれが実現可能であることくらいは知っていたが、やってもらっても困るので口にはしなかった。
 みくるは可愛らしい仕草で棚の上に手をのばし、一番近くにいた古泉が立ち上がろうとしたところで(片腕をキョンに掴まれたままだったので完全に立ち上がることは叶わなかったが)(そして古泉の腕を掴んだままのキョンも同じように立ち上がろうとしたので、はたりと視線の合った二人は大人しく席に戻った)ひょい、と少し背伸びをして、救急箱の代わりにしているお菓子の箱を取り出した。絆創膏や消毒液、お腹が痛いときの薬やのど飴なんかがごろごろと入っている。その中から見つけ出された空色の爪切りは、ふわふわと柔らかそうなみくるの手から、キョンの手の平に受け渡された。
「爪、切ってくださるんですか?」
「深爪しときゃ、噛めないだろ」
「痛くしないでくださいね」
 それはどうかね、と言いながら、キョンは自分の前に広げていたノートと教科書を肘を使って周りに退ける。机を横断するようにのばされた古泉の腕、キョンの横で黙々と赤本を読み込んでいた長門も興味を示したらしく、視線を寄越した。
「きれいなものではありませんよ」
「そんなことはない」
「そうですよ、少し骨張ってて、古泉くんらしいかっこいい手です」
「そう、ですか」
「そう」
 爪切りを、使える状態にしたキョンは、お前はすぐに謙遜のタイミングを間違える、と笑いながら、ぱちん、古泉の右の手の、人差し指の爪を切る。いびつにさせる癖がある上に、栄養が足りないのか、ところどころ層になって剥がれ薄くなっていた。その部分に刃が入ると、ぱんっ、とひときわ高い音が響いて、長門は驚いたようにまつげを少し動かす。その様子が面白く、古泉は片手をキョンに預けたままそれをぼんやりと観察することにした。
「先はぼろぼろなのに、きれいな色ね、古泉くんの爪」
「涼宮さん、」
 いつの間にかキョンの肩口から覗き込むようにしていた涼宮ハルヒが、どことなく嬉しそうにそう声をおとす。首に大きなヘッドフォンを引っ掛けている彼女は、集中するあまり今までこちらのことに気付いていなかった、というところなのだろうが特に機嫌を損ねることなく楽しそうにしていた。慌てたのか、ヘッドフォンからは少しの音量で音楽が流れたままだったが、今はみな、古泉の手先に夢中であるので問題はない。開け放してある窓から生暖かい風が入ってきて古泉は、少しのびたキョンの髪がハルヒの前髪と同じように揺れるのをおかしく思い、長門の反応と交互に見やることにした。
「ねえキョン、次わたしの爪も切って」
「はいはい、じゃあ後ろに並んどけ」
 繕われているのを羨ましく思ったのか、ハルヒは大層上機嫌に、そして珍しく押し付けがましい口調を用いずにキョンへとお願いをし、ただし古泉の後ろには並ばずそのまま覗き込む体勢を保っている。ぱちん、ぱちん、続けて切られていく爪は当初の宣言通り深爪であり、確かに噛み付く箇所がないほどに短かった。痛くはないので、彼は加減を知っているのだろう、と古泉は勝手に思う。
「お上手ですね」
「爪切りに上手いも下手もあるか」
「少なくとも僕は、それに関してあまり能力はないようですが」
「そもそも切ってないだろお前」
 ぱちん、最後まできれいに切り揃えられた指先は、まるで別人のようだった。美しい気がする、と古泉が思ったところで、きれいになったよ、とキョンが笑う。
「ほれ、古泉はハルヒに席を譲れ」
「あ、はい」
 ぽんぽん、と手の甲を軽く叩いて、席替えを促すキョンに従った。ハルヒが意気揚々と周囲を迂回してくる途中に、長門がぽつりと「私も」と告げ、そうしたら古泉の横に座っていたみくるも「あたしもお願いしていいですか?」と微笑む。キョンは笑顔ながらも、長門の方にふいと視線をやり、その含むところは確実に(爪のびたりするのか)という内容であったが、本人も何かを含むようにこくりとひとつ頷いたので「じゃあ並びなさい」と言わざるを得なかった。まだハルヒも席についていないうちから競うように立ち上がろうとする長門とみくるを、古泉は酷く微笑ましい気持ちで眺める。
「あら、」
 いまだ流れ続ける音楽に合わせ、スキップでもせんばかりの勢いで後ろにやってきたハルヒが、つ、と足をとめた。座っている古泉の頭上に自らの視線を固定し、不思議そうに首を傾げる。つい、と、突然首筋を細い指がなぞり、古泉は驚愕のあまり転げ落ちそうなくらい派手な音を立てて椅子を鳴らした。
「ひっ…! ど、どうしたんですか、涼宮さんいきなり、」
「あ、ごめんね。何だか、首のところ、すごく荒れてるみたいだったから。痛い?」
「え…」
 心配そうにするハルヒは、引っ込めきれない右手を宙に浮かせたまま、顔色を窺うように首を先ほどと反対側に傾げる。古泉の首筋は、指摘の通り赤く荒れた肌を襟から少しだけ覗かせていて、よく見なければ気付かない。
「すみません、首、汗をかいていたでしょう」
「いいのよ、そんなのは」
「あの、夏場には、よくこうなるんです」
 すい、と顎を紙の薄さほど前に出した長門が、汗疹、と声をあげ、
「紅色汗疹、僅かに深在性汗疹の発疹も見られる」
「こんなに暑いのに、そんなきっちりネクタイ締めてるからじゃあないのか」
 続く病状の説明の途中で、キョンが立ち上がって手をのばし、古泉のネクタイを器用に解いた。あ、という声を出す間に、第一ボタンが外され、発疹が広範囲にあることが見て取れる。同時に、同じぐらい赤く、頬が火照った。
「あ、あの、」
「あたし、ステロイドのお薬持ってますよ。古泉くん持ってますか?」
 みくるが、足下にあった鞄を拾い上げ、愛らしい小さなポーチから塗り薬を取り出す。あたしもなるんです、と笑った彼女は、真っ赤になった古泉が何も答えられないままでいるあいだにそっと、きれいに爪の切り揃えられた手に薬を乗せた。
 さっき、彼が無意識に、爪を噛んでいたのはこれだったのか。と、キョンは閃いたように思う。
 汗疹は小さな子に多い疾患だと言うし、古泉はそれを知られたことがどうにも恥ずかしかった。ほんとうは、首だけじゃなく、背中にも広がっているし、掻きむしるほどではないにしろ痒いし、シャツが擦れれば痛い。逃したくて、気を逸らしたくて、苛々としそうになったところで、キョンに手首を掴まれたのだった。
「持って、ない、です」
 俯いてしまい、小さな声で喋る古泉に、みくるはもう一度「どうぞ」と大きな手に触れる。ありがとうございます、と言いたいのになかなか口から出ていってくれなくて、嬉しいのに歯痒くて、いっそ泣きたい。
「あー、女子のみなさん、ちょっとばかしご退室願えますか」
「なによキョン、突然」
「古泉の裸が見たいっつーなら、まあ、いりゃいいけどな」
 あら、と、意思の疎通が遂げられたらしい彼らの、会話の意味がすぐには理解出来ず古泉はたぶん、とんでもなく不安げな目でキョンを見た。ふっ、と笑ってみせる彼に、任せておけば大丈夫だ、と心のどこかで、誰かが言う。
「もう、今日は古泉くんばっかりだわ!」
 高らかな声は、音楽に乗り、
「すぐに済む。終わったら順序よく並びなさい」
 こたえる声も、奏でるようだった。
「まったく、お前は空気の通りが悪すぎるんだ」
 ぱたん、と静かに閉じられた扉の向こうから聞こえる会話は、開花を喜ぶ小鳥たちのさえずりみたいで、少々機嫌を損ねた様子の親鳥は、溜め息を吐いて近づいてくる。薬を置かれたのが合図、それからまったく動けなくなってしまった古泉の頭をぱこんと叩いて、キョンはとても自分勝手に、ずるりとシャツを引き出した。
「ちょっ…!」
「どうせ背中までまわってんだろ、首は自分で塗れ。その様子じゃ、病院にも行ってないんだろうなあ、古泉」
「…はい」
 汗で貼り付いていたシャツが剥がれたのは、とても、痛かったけれど、そこに躊躇うことなく触れてくる手はあたたかく、優しい。
「あーあー、ひでえな。一年の夏は、よく無事だったもんだな」
「涼宮さんの力、でしょうか」
「ばかか、調子乗ってんな」
 ぱんっ、と軽く手をあてられて、古泉は思わず短い悲鳴をあげた。廊下から「ちょっとキョン、古泉くんいじめてんじゃないわよ!」と怒鳴り声が届き、しまった、というような表情をした彼を見て古泉は笑う。外気にさらされた背中を、穏やかな風がなぞっていき、とても心地がよかった。薬を乗せた指先が発疹をとらえるたびに、ちり、と少しだけの痛みが古泉の肩を揺らす。
「ありがとう、ございます」
 あとは指しゃぶりの痕だけで、きれいになった爪の先。お前家では裸でいた方がいいんじゃないか、と真剣に言うキョンの言葉に声をあげて笑いながら古泉は、机の上に転がされた空色の爪切りを、指先で転がした。







20080328