さて、俺は本日より、彼女の思考に自らの思考を寄せる努力を、今後一切取り止めることをここに誓う。誓ったところで結局、逃げ出すことも、離れることも出来ないから、これくらいは許して欲しいね。
 俺は今、非常に頭に血がのぼっており、要するに怒っている。原因はそれだけでなく、つい先程うっかりと足を滑らせ階段から落ちて、派手に後頭部を強打したからだ。気の遠退く中、ぼやける視界にはまるで自分が死の宣告を受けたかのような表情で駆け下りてくる、涼宮ハルヒ。と、朝比奈さんと、長門。ここまではよかった、俺の頭が、そんな状況に置かれたにも関わらず器用にも怒りを覚えたのは、
 身体を起こそうと咄嗟に手をついたその下に、俺がいたからだ。
 当然、起き上がることは叶わず、ハルヒのばかみたいに大きな声で呼ばれる俺の名前と、古泉の名前を聞きながら、勝手に、自然に、意識は飛んだ。

 歩み寄る努力を半ば拗ねるように取り止めたとはいえ、現状を見なかったことにするわけにもいかない。どこの少女漫画を読んだのか知らないが、これは学校に遅刻しそうな女子生徒がトーストを口にくわえたまま通学路を走っている途中に曲がり角で後々恋に落ちる男子生徒と衝突して星が散るのと同じくらい幼稚で独創性のない、俗に言うベタな展開というやつではないだろうか。使い古された定番に興味はないのだと思っていたが、突拍子もないやつほど、たまには原点に返りたくなるものなのか。正直、対応に困る。順応性の高さは我ながら目を見張るものがあると自負しているが、予想出来得る範囲内で攻め入られると手駒を外に配置しすぎていて呼び集めるにも時間がかかるというものだ。その点、お前は暢気でいいな、古泉よ。
「そんなことはありませんよ、緊急事態です」
「うわあ… お前、あんまりこっち見んな」
 最近わかったことだが、古泉一樹という男は生まれてから今までの十五年間を人並み以上に謳歌している。出会った頃こそ、胡散臭いほどの悲壮感を漂わせ、助けてくれと言わんばかりに庇護欲を掻き立てる(実際に掻き立てられるかどうかは別にして)雨の日に道端へ捨てられた子犬のような目をしていたのだが、ほどなくしてそれらは全てキャラ作りの一環であったことを知った。長門は勿論、朝比奈さんも彼が古泉一樹を演じていることを最初からご存知であったように思う。俺が、その下手な芝居に一本取られていたのは、会話の中で実際にこいつ実は鬱なんじゃないのか、と思うような真実味を垣間見ることがあったからだ。勿論それも今にして思えば笑えるはなしなのだが、それはまた後ほど記することにしよう。今は目の前の胡散臭い微笑みが、俺の顔であるということの方が重要だ。
「あと、あんまり喋るな」
「失礼ですね、いい声じゃないですか」
「せめて、敬語をやめてくれ…」
 たぶん、用意された台本を読んでいるかのような台詞が自然に、言わざるを得ない心情として吐露されていくのが耐えられない仕打ちであるように俺を打ちのめしていく。喋るたびに、声帯が古泉の声を震わせる事実がもう酷い。これがトラウマにならずして何になるというのか。
 ここで強制的に自分の情けなさをアピールしなければならないわけだが、状況説明をするには他の手段がないので仕方がない。先程スッ転んで古泉共々落ちた階段は市営プールの更衣室へ続くそれであり、今俺たちが、いや正確には俺だけが頭を抱えているこの部屋は救護室だ。小学生の頃、プールサイドを走り回って叱られた記憶があるものだが、もしかすると当時の自分は現時点の俺に叱られたのではないかと過去を反芻してしまうぐらいの後悔っぷりだ。いや別に俺たちは走っていたわけではない。後ろからちゃんと女子たちがついてきているか確かめる為に振り返ったところでバランスを崩し、最も近くにいた古泉の腕を咄嗟に掴んでしまい、諸共に転げ落ちたのだ。後方確認を怠っていればこんなことにはならなかった、がしかし、この数ヶ月ですっかり癖のようになってしまった団員の人数確認は最早不可抗力だろう。ぐるぐると状況把握に忙しい俺の横で、微笑んでいる古泉は何を考えているんだ。お互いに水着一丁という間抜けな格好のまま、擦り傷などを手当てしてもらってからは正面に立つことを禁止した。高校生にもなって傷を治療されながら叱られる羞恥に耐えた後、ふと顔を上げれば自分の顔が笑っているというのはもう最悪だった。
「あなたこそ、そんな眉間に皺寄せないでくださいよ」
「元々こういう顔だ、諦めろ」
「それ、僕の顔ですよ」
 楽しそうだなあ、おい。高い気温の所為で、肌にくっついていた水分はすっかり蒸発している。日焼けをしない体質なのか知らんが俯いていると目に入るのは自分より白い手足ばかりで、何が悲しくてこんなに露出している他人の身体を見ていなくてはならないのか。目を閉じてもいいのだけれどそうしている隙に古泉が勝手な行動に出てしまっては困る。ハルヒの気紛れであることはほぼ間違いないにしてもこれは早々にどうにかせねばなるまい。気持ちが悪くてかなわん。
「解決策を模索するのは勿論ですが、現状を楽しむというのもひとつの手です」
「…楽しむ気満々のところすまないが、他の手を考えてからにしないか古泉」
 もうそろそろ、痺れを切らしたハルヒがこの救護室に飛び込んでくる頃だろう。転んだ拍子に一瞬意識は飛んだがそのまま気を失ったわけではないので、まあ中身が入れ替わってしまったことには長門辺りならすぐに気付いているだろうが、彼女たちには騒がず待機するようにと言い残してある。あー、これ足首捻ってるな、体温以上の熱を持っていて酷く不快だ。派手に擦りむいた肩口もずきずきと痛い。ちらりと横を見れば、何やら嬉しそうにきょろきょろしている俺のかたちをした古泉は、膝にひとつ絆創膏を貼っているだけだった。どう見てもこちらの負傷が多い、ちくしょう、庇われたか。
「しかし結局、傷の痛みをあなたが請け負っているのでは本末転倒ですね」
「思考を読むな似非エスパー」
 視線で気が付いたのだろう、俺が生まれてこのかた一回も取ったことのないボーズで肩を竦め、古泉は笑った。
「まあ、何にせよ、」
「…黙れ」
「好きな人と中身が入れ替わるというのは、世間一般の恋に焦がれる人々が、普段思っていても叶うことのない願望のひとつだとは思いませんか」
「思いません」
 相手が悪い、悪過ぎる。実は暢気な古泉が、演技の内側で俺に見せていた鬱部分が、これだ。俺のことが好きだと彼は言う。告げるはずのなかったその感情は、彼の中で暗がりを作っており、それが演じられた古泉一樹に真実味を与えていた。その事実自体は、今は置いておいてやってもいい。問題は、暗がりを作っていることを放棄した彼と、俺が、入れ替わってしまっているということだ。何をされるかわからん、という恐怖がいっとう先に浮かぶ俺もいかがなものかとは思うのだが。
「あー、違いますね」
「何がだ」
「それよりも問題があることに気付いてしまいました」
 後で聞けば、既視感があったのだと古泉は言った。要するに俺たちは、ひとつのシークエンスを俺がお前でお前が俺で状態のまま終えることになった、っつーことだ。その二週間強の詳細は、俺の気が向いたらご説明することにしよう。気の向かないことばかりであろうことは想像に容易いだろうが、ときにはストーリーテラーとしてその役割を果たさなければならんと、考えることはあるわけだ俺も。リセットされるそのときに、あなた方の記憶も白紙に戻ればいいと願うばかりだけどな。

 もういいさハルヒ、単純なことに俺の怒りは既に風前の灯火だ。今すぐ吹き消してくれても構わんから、当然命には別状のない俺たちを見て大袈裟に安堵をする表情を見せてくれ、そうして顔を真っ赤にしてスッ転んだことを叱りつけてそれから、今後俺たちの下手な演技には目を瞑ってくれ。俺の喋り方を練習しはじめる古泉の頭を小突くように叩いて、今殴られたのは俺の頭か、と思うとうんざりした。


 三千五百七回目の夏が、始まる。







20080819