目が、覚めると。あるはずの気配がなく、僕はたぶんそのとき、相当に取り乱してしまった。軍人としていかがなものかと思われても仕方がない、ここは彼のベッドであり、僕が身を置くことの許された安息の地なのだ。そこへの侵入が多少無理矢理であったり、ときには拒否を受けることがあるのも、ご愛嬌の範囲である。とにかく、あるはずの熱が傍になく僕は相当に焦った。早朝出勤を言い渡されでもしない限り目の覚めることのない、明け方。
「どうした、」
 視線を少し横にずらせば、存外間近にその姿はあり、僕は寝起きの酷さも吹っ飛ぶほどに安堵した。ただ、肩越しに見える彼の手には携帯用の端末が起動している状態でまだ暗い室内をささやかに照らしており、嫌な気配がする。また慌てだした僕に、彼はぶっきらぼうに「おはよう」と、朝の挨拶を寄越した。
「おはよう、ございます」
「何なんだよ、挙動不審だな。いい朝だぞ」
 白々しい。これは明らかだった。地球のように、決まった時間で照らされることのないこのコロニーで、いい朝も何も。
「あなた、」
「何だ」
「消した、でしょう」
 枕元に置いていた自分の端末を立ち上げる暇すら惜しく(実際は起動までの待ち時間などないに等しいが)目覚めた瞬間に思い至ったことを口にした。余計な感情を含ませることは叶わずそれは酷く、いい意味で素直に、彼へとぶつかったはずである。半分背を向けた状態であった身体を捻り、溜め息をひとつ。
「公共の場で、あれはない」
「でも、」
「俺も、寝惚けてたんだ」
「そんな、」
 うまく口が動かなかった。今の僕は大層に間抜けであろう。彼は、昨晩の書き込みを消したのだ。あの、SNSから、消したのだ。
 公共の場と言っても、閲覧・参加が出来るのは我が涼宮閣下のもとに集うものだけである。しかしこの限定的な集団生活に日々をなぞらえている僕たちにとって、それは確かに全てであった。階級が上がるにつれ、その注目度も高まる。事実、閣下の日記には一般兵からの書き込みも見られ、昨日、いや昨晩は僕のところにも多くの書き込みが寄せられていた。そんなことは、言われなくても知っている。
 だからこそ、僕はあの場で、気持ちを伝えたのだから。
「誰が見てるかわかんねえ、っつーか、」
 ふ、と視線を落とした彼が言い淀む。そうしてから、いや何でもない、と口を噤んだ。この人が、そうするだろうとは、実を言うと想定の範囲内で、しかし推測と実行のあいだには大きな壁がある。あのようなやりとりを他人に見られて気分を害さない方が、正常ではないと、考えることは勿論僕にも出来る。けれども俯き言い淀む様子を見るに、理由はもう少し別のところにある気がした。たぶん彼も、知っているのだろう、僕らの行動が「見られて」いることを。システム構築に長けた彼女のように書き換え、侵入までは出来ないものの、入ることの出来ない箇所が作られているプログラム、は僕にもわかる。学校を出ているものならば、そう難しくはないはずだった。噂もきっと、耳に入っているに違いない。
「騒ぎ立てられるのが、そんなにお嫌ですか。昇進すれば注目度もそれに伴う、参謀に身を置かれるあなたならご承知でしょう」
「他人のプライベートを、興味本位でそうするのは、あまり好ましくない」
「そんなこともありませんよ。彼ら、彼女らは、心から僕たちを祝福してくれるでしょう」
 ぶわあっ、と、猫が毛を逆立てるように、彼がいっぱいに見開いた目でこちらを見る。どちらかと言えば、睨みつける、と表現した方が適切だろうか。
「お前、なんで知って、」
「それはお互い様ですよ。自室療養のあいだ、暇だったんです」
「いや、そうじゃなくて、」
「これはあまり自慢出来たことでもないですが。僕に、どれだけの部下がいるとお思いです?」
 他人のIDとパスワードを用いた事実を、彼は酷く嫌悪したようだった。それは仕方がない、僕自身もそう思う。結構な人数が参加するSNSとはいえ、まだβ版しかも開始されてから時期も浅い。書き込む彼らの心のうちを探り、最短ルートを歩むことは容易かった。僕らの仲を邪推する(というのもあまり心証の良くない物言いだが)きちんと顔を合わせたこともない人々の存在を知って尚、寧ろ知っていたからこそ、僕は、
「それだけの覚悟で、ということだったのですが」
「…言葉を濁すな」
「すみません。それだけの覚悟で、僕はあなたが好きなんだ」
 手にしていた端末を放り投げ、ベッドから這い出る。ぼさぼさの髪の毛も、よれた着衣も、構っていられない。已然俯いたままの彼が、小さな画面に触れる、その震えた指先を見てしまっては。抱きしめる寸前に彼から、「指導が入るぞ」と声がおちた。言葉遣いのことだろう。あなただけです、と、思いながら、短い黒髪に口づける。
「俺は、」
「はい」
「オーダーメイドとか、時計とか、そういうのは別に、いい」
「はい」
「合鍵、…IDも、必要がなくなれば再申請して、破棄する」
「はい」
「高い飯もいらん、食堂で充分だ、俺にとっては、だから、」
「はい」
 彼が何を言いたいのか、昨晩わかったはずなのに、こうして直接言葉にされそうになると、胸が踊るような気もしたし絶望の淵に立たされているような気にもなった。ピンッ、と軽快な機械音が鳴り、端末が急に明るくなる。時間だ。
「怪我なんかせずに、元気よく生きろ。俺を、軍人でいさせてくれ」
 芯の通った、力強い口調で彼が言う。心配をすると心が傾いてしまうから、というのはさすがに、勝手な意訳だろうか。見据えた目は、心地よいほどに透き通ったままだ。最後にひとつ笑ってみせた彼は直後、部屋から僕を蹴り出した。
「なっ…!」
「今日は式典だ、さっさと用意して出てこい。幕僚総長殿」
 バシュウゥゥッ、と勢いよく閉められた扉の前で、しりもちをついた状態で転げる僕。投げて寄越された端末を手に、取り敢えず自室へと戻る。あんなに真っ赤なかおで笑われては、言うことを聞かないわけにもいかないだろう。ざっとシャワーを浴び、身なりを整えた。ジャケットを羽織って、式典用の装飾品を探していると端末がピン、と鳴る。艦内通信の受諾を要請する音だ。発信者は、長門有希。
「おはようございます」
「おはよう。作戦参謀からあなたへ、伝えておくように言われたことがある。聞いて」
「ええ、勿論です」
 うっかりしていたがこれは音声だけでなく映像も同時に配信されているので、僕は慌てた様子を悟られないよう、羽織っていただけだったジャケットの前をゆっくりと閉めた。小さな画面に映る彼女は、当然既に完璧な姿だ。
「今月二十三日より始動しているSagittarius Online System.に関する報告。作戦参謀が所持するIDにて更新可能なページのプログラムを、四月一日二十三時五十九分時点の状態に復元した。上書きすることも可能だったが、彼からの依頼は時間そのものの遡行であったため、バックアップを用い構築し直した。以上」
「…了解しました、ありがとうございます」
 確かに、自分のIDが行使される範囲内での書き込みは自由に削除も出来るし、書き込める。さすがに他人の名前で書き込むことは出来ないが、やろうと思えば僕の端末を取り上げるくらい彼にとっては朝飯前のはずだ。少なくとも、長門さんに頼むよりか、気恥ずかしさもなかったことだろう。それでも彼は、ちゃんと、僕が書き込んだ、ということを大切にしてくれた、と受け取っていいんだろうか。直接言葉で告げたから、許してくれたんだろうか。
 好きです、と書いて、消されたメッセージを、復元してくれた。
「幕僚総長」
「あ、はい、なんでしょうか」
「現在、Sagittarius Online System.はβ版で稼働しているため、このような操作もすぐに可能。しかし本始動後は多くの人が利用する環境となる。よって個人的なプログラム構築の改竄が許可されない状況も考えられる」
「え、あ、はい?」
「発言には、気をつけて」
「…はい」
 通話終了、画面はメニューへと戻る。最後のは明らかに釘を刺されたわけだが、気持ちが受け入れられたという事実は僕を浮かれさせるに充分だった。やはり可愛い人だ、そしてどこまでも男前だ。かっこいい。心が温かくふわふわとして、出来るなら今すぐベッドへ潜り込みもう一度眠ってしまいたいところだ。しかしそういうわけにもいかない何せ今日は入隊式、新しく共に生きる彼らを迎える大切な式典だがそれだけでは、ない。こういった式典で、最も注意を払わなければならないのは、暗殺だ。この軍を乗っ取るために誰を狙えばいいか、それを知っている人たちは確実に存在し、そのようなやつらから、彼女を守るのが「僕たち」の役目であるのだ。政治家などを殺したところで意味がない、標的は、涼宮ハルヒ、その力。何かあれば勿論、中央や機関が真っ先に動くが、僕もその末端である限り、必要とあればそちらが最優先事項となる。そうなったときに、彼がいてくれないと、
 だから僕は、あらゆることを形に残るようにしてしまう。服も、言葉ですら。目に見えるように、意識が持っていかれたときでも、すぐに、
 彼が僕を、僕に戻してくれるように。
「幕僚総長、まだお部屋にいらっしゃるのですか。そろそろ会場へ」
「すぐに出ます」
 受諾要請もなく端末から発せられる部下の声。許可を必要としない業務連絡だ。いけない少しぼうっとしていた、収納に突っ込んであったせいで多少くたびれた感のある装飾品を手に、僕は急いで部屋を出た。廊下を歩きながら、彼はもう先に出ただろう、と考える。長門さんにお願いごとをする時間を考慮しても、準備の早い彼のことだ、いつもの通り不機嫌なかおで腕を組んで、着席している姿が目に浮かぶ。足を速めながら、癖のように端末を覗き込んだ。このところ頻繁に書き込むようになっているようだからもしかしたら、とアクセスした先には、

 キョン
 3008.04.02 ... 08:12
 さて、エイプリールフールはこんなもんでよかったか。

 …彼は、意外と優れたユーモアセンスをお持ちのようだ。僕は式典会場へと向かう足をさらに速め、そのあいだも出席をしない部下たちから入る連絡に対応し、きちんと指示を飛ばした。しかしどうにも散漫になる。なってしかるべきだろう。嘘にされて、たまるものか。まだ許される時間のはずだと気付き、端末から彼のIDを呼び出した。SNSではなく、端末間通信用のIDだ。許可を待っているとすぐにそれは途絶えた、相手からの拒否である。しかしその後すぐ、彼の方から受諾申請が入った。そうくるか。僕が発信したのは「映像配信を伴う通信」だったのだが、彼が寄越したのは「音声のみの通信」要請だった。考えられる理由としては式典用の軍服を見られたくない、というところだろうが、今から顔を合わせるのに何を気にしているのか。今から顔を合わせるのに端末で連絡を取る僕は、まったく人のことを言えない立場であるので、当然通信を許可した。
「何か、ご用ですか幕僚総長殿。貴方以外は既に揃っておりますが」
「すみません、今大至急向かっているところです」
「何か、ご用ですか」
「…あの、嘘にされるのは、それはそれで、」
「古泉、幕僚総長」
 名前の後に、申し訳程度の階級。この先に出てくる発言は、作戦参謀ではなく、彼の言葉だ、と思う。
「…情報参謀がご協力くださった、プログラムの再構築をご覧になってはおられないようですね」
「え?」
 ブツンッ、と通信が遮断される。強制的に向こう側が端末を切ったのだ。今の喋り方は、怒って、いる…? どうしてだろう、と思いつつ、先ほどアクセスしていた彼のページから、昨日の日記に遡る。僕はその場で、急がなければいけないはずの足を、とめてしまった。

 古泉
 3008.04.01... 23:55
 あなたのことが、嫌いです。

 僕が書き込んだもののはずだが、書き換えられている。うん、ややこしいな。それにしても何て、可愛らしく、捻くれた人なんだ。こんなところもう誰も見ないんじゃないか、と思うのは、都合がよすぎるか。
 ピッ、と、外部からの通信。発信者は、森園生。
「古泉、厳戒態勢で」
「了解致しました」
 気分がいい。今なら誰でも全力でぶん殴れ、…おっと、いけない。窓から見えるこの宇宙が、僕らの生きる場所だ。そしてこの足が向かう先には守るべき彼女がいて、彼がいる。さて、今日も一日、お仕事を頑張りましょうか。







20080402