「おや、可愛い子がいると思えば、あなたですか」
 夜。だいたい決まった時間、彼らは交互にやってくる。はじめたばかりのコンビニバイト、特別お金が必要なわけでもないのだったが、何となく、時間を持て余したくなくてほぼ毎日シフトを入れてもらっていた。惰性をこよなく愛していた俺はどこへやら、理由はまあ、後々な。とにかく、住宅街の中の閑散としたコンビニ、概ね決まった時間にやってくる客。
「お前、ちょっと前から思ってたんだが、そのジャージと眼鏡はやめたほうがいいんじゃないか」
「どうしてです?」
「なんつーか……、ほら、見られたら印象悪くないか、こう、」
「涼宮さんに?」
「うん、そう。涼宮に」
 ホットの缶コーヒーひとつ、会計のあいだに話す、にしては長い。家から出るまで確実に前髪結んでたんだろうなと思われる癖と、度がきつそうな縁なしの眼鏡と、おそらく中学のときのジャージ。かろうじて上下揃いではないのが救いで、下は存外にしっかりしたデニムにごついスニーカーだ。つーか寧ろ下ジャージはけよ、それとも家では全身ジャージなんだろうか。どうでもいいことこの上ない。黒い詰襟を着ていないだけで印象は随分と違い、勉強の合間らしい彼は物凄く、何というか、普通の男子高校生だ。階段落ちから目覚めた直後は、意味もわからず憎々しげな対応をされていたものだが、何を開き直ったのか、ここ最近は友だちのように話し掛けてくる。顔もよく、頭もいい彼は、北高にもファンがいるようだ。
「何の為に時間をずらしているとお思いで? まあ、彼女はこんな僕を見たところで、たいした興味もないでしょうけど」
「そうかあ? あいつ、ここに来ちゃお前の話ばかりするぜ」
 お会計百二十円です、続けて言えば、何かを言いたそうに息を飲んだ彼は、何も言わずに二百円を差し出す。


 目が覚めると世界が一変していた、というのは漫画小説アニメーションの中でのみありきたりとされる事象なんだと思ってた。今まで、自分の人生はとても普通で、これから先もそのままであるはずだった。何の疑問も、ましてや不満などなかったんだ。平和がいちばんで、身に起こらない事件事故を不謹慎にも羨む。そういう人生がベターで、人生なんてベターぐらいがちょうどいい。はずだった。
 学校の階段から転げ落ちて救急車乗って入院して数日、目が覚めた俺の側にいたのは、見知らぬ女と男だった。後から思えば昏睡状態の息子の病室に面識のない人間を入れる両親もどうかと思うのだが、やつらのことだ、よくまわる口でどうとでも言ったのだろう。リンゴを剥いていた男はこちらを見て笑い、ベッドの下で寝袋に入っていた女は飛び起きた途端、こう叫んだものだった。
「ほら!古泉くん!やっぱりそうよ、ジョンは異世界人だったのよ!」


 袋にお入れしますか、との問いには、いいえ、と返ってくる。そりゃそうだ。いつも店先で飲んで、缶を捨てていくのだから知っている。店のロゴが入ったシールを貼ってやれば、手の中で遊ばせるようにそれを持ち、まだ立ち去ろうとはしない。もう少し夜も更ければ客も増えるのだが、この時間はいちばん微妙だ。新人の高校生バイトがひとりでレジにいても問題がないのがいい証拠、別に、話したくない相手でもない。会ってまだ数週間もしないが、そういう男だった。
「受験勉強、か?」
「ええ、まあ長いスパンで考えればそうでしょうね」
「一年なのに」
「もう数ヶ月すれば二年生ですよ」
 もっと遊べよ青少年、と思ってしまうのは何故だろうか。自分は特にそのような願望もないのに、そうした方がいいような、そうすべきなような、気が、するのは何故だろうか。
「まあそれはいいんだが、」
「いいんですか」
「なあ、いい加減に教えてくれよ。ジョンって誰だ、俺が入院しているうちに、何があったってんだ」
 襟首引っ掴んで問い質す、程ではなかった。知らないなら知らないで別に、とも思っていた。彼と、涼宮と、それから朝比奈さんと長門さんが、俺を見ては、何か楽しそうに悲しそうにするのが少し、気になるだけだ。週末には、俺の予定など関係なく、五人で集まることになっている。涼宮が言い出したことだったが、断る理由もなかったので行くつもりだ。
「……ふふ、申し訳ありませんが、それは、僕の一存で口にしていいことではないもので」
「なんだそりゃ」
 とん、と乾杯をするように、俺の頬に熱い缶コーヒーをぶつけた彼は、瞬間身体を引く俺を見て、楽しそうに笑う。
「それでは、また」
「古泉、」
 踵を返し、出口へ向かう彼を、呼び止めた。名を呼ばれるとは思っていなかったらしい、古泉一樹は、ほんの少しだけ驚いたような顔をして、振り返る。早めに反応してしまった自動ドアが開き、来客を告げるチャイムが無為に鳴った。
「お前、笑ってる方がいい気がする」
「……初詣、」
「は?」
「みんなで行きましょうって、涼宮さんがおっしゃってました。予定、開けておいてくださいよ」
 途端笑顔を引っ込めた彼が、それだけを言って夜にまぎれていく。まったく、酷い天邪鬼だ。同じような天邪鬼が、もう数十分もすればもうひとりやってくる。同じ缶コーヒーを買っていく彼女の為に、俺は一缶分空いたそこにもう一缶、補充してやるのだった。
 涼宮は言う。古泉くんね、最近いい顔するのよ。何か企んでる、って言うのかしら、前よりずっと生き生きしてるわ。きっとあんたの存在が謎すぎるからね。ほんっと、どこ行ったのかしらジョン。と、世界中の不思議を集めたような、声で。


 俺はすっかり寝ていたらしいので知らないが、入院中一度も、誰も、見舞いには来なかったそうだ。国木田谷口はまあともかく、我がクラスきっての優等生朝倉涼子辺りは体裁を保つためにも(と、言うと聞こえが悪いがこれといって悪意はない)来ても良さそうなもんだが、退院後、彼らは揃って「だって普通に学校来てただろう」とさも当然のように言ったのだった。俺は首を傾げる。そりゃそうだろう、病院にいたんだ。学校になんて行っていない。しかし彼らは「いた」と言う。加えて「確かに様子はおかしかった」とも言った。首を傾げるしかない。退院直後から俺を追い回す光陽園学院の二人はそれを聞いてただ、笑うだけだった。北高のマドンナ朝比奈さんが俺に話しかけてきたり、ただ一度、図書館で迷っていたところに声を掛けカードを作ってやった文芸部員(長門有希さんと言うらしい)とちょっと仲良くなっていたり、ささやかかも知れないが、俺の世界は一変したのだった。ジョン・スミス。その名だけが、俺に与えられたヒントだったわけだ。







20091121