彼は、自分が機関に在籍している理由を、涼宮ハルヒが発生させる閉鎖空間に侵入し神人と戦う術を持っているから、と説明したことがある(正確には、そういった限定的な能力を持っているから機関に属している、というような言い方だったかも知れない)。一般人への情報開示を許可したのはその件が今のところ最後で、前例はない。よって他と比べることは出来ないのだが、その一般人(私たちは鍵と呼ぶ)は機関という組織に必要以上の興味を持たず、寧ろ込み入った話は避けているように見受けられた。だからこちらも、必要以上の情報提供は控える方向で態勢を整え直し、幾つかの書類を改訂し審議に通しているところである。それがお互いにとってストレスのない関係を保つ為に最善だと予測されるからだ。私たちは、古泉一樹が限定的な超能力のみを有するとの認識を(例えそれが整合性を欠いたとしても)鍵の自由であると考える。

 一切の書類にストップをかける事態に陥ったのは、ある夏の日のことだった。詳しい症状はわからないが、日常的に頻用される単語として当て嵌まるのは、疲労。もしくは熱中症による脱水症状。いつものことではあったが、本人からの情報では全容がどうにも掴めないので、私はすぐに携帯電話から見慣れた番号を呼び出した。油断をした箇所があるとすれば、紛れもなくここだ。手短に用件を伝え、通話を終える。すぐにマンションに向かうように、と。メンテナンスのこともあるので、彼一人で十分だと判断し、手の空いている誰かを派遣することもしなかった。今まで訪問客など皆無だったその部屋に、複数人で押し掛ける様は不自然だと思っていたからだ。そう、つい四ヶ月前までは、人の気配など感じられなかったその部屋に。



 我ながら無粋な真似をしたと、思い至ったのは後からだ。そのとき俺はどうしようもなく焦っていて、自転車を全速力で飛ばしているあいだ考えたことと言えば、もしかしたら携帯電話を忘れたかも知れない、それだけだった。結局それは普段とは入れる場所を間違えられてデニムのポケットに財布といっしょにぎゅうぎゅうと詰まっていたわけだが、要するにそれぐらい気が動転していたということだ。更に言えば、オートロックのエントランスがたった今他の住人が通ったか何かでうっかり開いていて、インターホンを鳴らすことなく放り出した自転車もそのままに閉まる寸前の自動ドアの隙間に駆け込み身体を滑り込ませてしまったのだった。一度、「入って」というあの平坦な声でも聞いていれば少しは頭も冷えたのかも知れないがその冷却剤も取り払われた今、残るは彼女の部屋がある階まで階段を駆け上がるまでだ。悠長にエレベーターなんぞ乗っている暇はない。そういう経緯で、俺は刷り込まれた習慣でもあるノックすら忘れ、ドアノブに手を掛けてしまった。
「長門!」
 叫んでから、絶句する。声を張り上げた瞬間に息を詰まらせることはなかなか高度なテクニックがいるらしく、絶句したのも数秒、盛大に咳き込んでその場に倒れ込んでしまった。ここまで全速力で走ってきたのも要因のひとつであろうが、何より視界に入った光景を脳みそが処理し切れなかったのだろう。何せ起き上がれない俺に手を差し伸べたのは、
「女性の部屋にワンクッションも置かず飛び込む勇気はある意味尊敬に値しますが、大丈夫ですか」
 微妙に震わせた声が普段通りの笑顔から落ちてくる、古泉だ。ゆっくりとした足取りで近付いてきて、膝を折り曲げながら顔を覗き込んでくる。かなり不快な距離ではあるが、今の俺にはその寄ってきた頭を押し退ける余裕もなかった。口元を押さえ体勢を低くして、呼吸が落ち着くのを待ってみても、なかなか状態は良くならない。肺が痙攣し始めたかの様に今度は嗚咽が止まらなくなり、ひゅう、と何の役にも立たない空気が勝手に出入りしていく、苦しい。なんだこれ、俺はただ、電話に出た長門が「死ぬかも知れない」と至極平坦な声で呟いたのを聞いて(冗談が言えないわけではなさそうだが、彼女はそれがとても下手であるので)話そうと思っていた用件も忘れ自転車をすっ飛ばしてきただけなのに。部屋についてみたら古泉がいて、肝心の長門は、こちらに背中を向けて座ったままだ。最も異様な点としては、微動だにしない彼女は上半身に何も衣服を身に着けておらず、俺が部屋に飛び込んだ際、古泉がその細い背中を手の平で辿っていたことだった。
 だんだんと、頭に血がまわらなくなってしまったのか思考がぼんやりと靄のようになってきて、それに準じて視界もぼやけてきた気がする。喉が破れてそろそろ血を吐くのかも知れない、と考えながら、肺も心臓も何もかもが活動の限界を訴えていた。苦しい、苦しい、苦しい。
「いけない、過呼吸だ」
 いつの間にか肩に手を掛けていた古泉が跳ねるように立ち上がる。相変わらずがらんとした室内で、彼が視線を左右に振って何かを探している気配が感じられた。少し、慌てている。珍しいこともあるものだと思って、笑っていない顔を見ておきたいとも思ったが、それが実行出来る程身体は簡単に言うことを聞いてくれず、それどころか悲鳴は止まない。離れていこうとする古泉の足首を思わず掴んだ。置いて行くな、と強く思っていた。もう状況が把握出来なくなっていたのだ。
「え、ちょっ…」
 派手な音を立てて古泉が床に膝を打ち付けても、掴んだ足首は離さなかった。足枷になった俺を、彼は嫌な顔ひとつせず引き寄せて、子どもをあやすように優しく抱きしめる。髪の毛に触れた長い指が、少し震えていた。胸に押し付けられたまま、視界が真っ暗になっていく。これは意識が遠退いているとかそういう類いの表現ではなくて、物理的に眼球が障害物によって覆われているという情景描写だ。そうされたところで、呼吸は整う兆しを見せなかったが、苦しいのなら目を閉じてしまうのは実に名案だと思い至る。視覚情報がなければこれ以上驚いて息を詰めたりしなくていいはずだ。ひゅう、ひゅう、と空気を通して喉が鳴る。その音だけが、部屋の中で大きく響いた。自分を抱いているのが誰なのかすらわからなくなりそうになりながら、俺は必死に抱きとめていてくれる身体にしがみつく。すると突然、
「なっ…長門さん! まだ動かないでください!」
「平気」
 頭の上で古泉が酷く大きな声を張り上げたのと同時に、俺は後頭部を何か強い力で押さえつけられ、額から鼻から口、顎までがぴったりと薄い布地にめり込んだ。呼吸が出来ない、と本能的に察知して、何とか口元だけでも位置をずらそうともがき押し付けられたまま何度も息を吐く。吐いた息であたたかく湿った布越しに、古泉の身体がびく、と動いたのがわかった。今この腕を離されたらこの世の終わりを体感するような気がして、無意識にしがみつく手に力を込める。
「動脈血中の酸素分圧が上昇、炭酸ガス分圧が低下している。血中の二酸化炭素濃度の上昇を優先。酸素不足を避ける為にこの体勢を維持する。吐いて」
 ほとんど寝転がっている体勢で、頭を押さえられているということは、長門はきっと俺のすぐ横にしゃがんでいるのだろう。平坦な声が落ちてくる。部屋に入ってから一度もこちらを向かなかった彼女が、今とてつもない腕力を持って俺の頭を古泉の胸に押し付けている。我が身ながら今何が起こっているのか全く把握出来ていない俺は、長門の言葉に従うしかないわけだ。他でもない長門だ、言うことを聞かない理由などどこにもない。引き攣る喉を殴りつけたい思いで必死に息を吐く。
「吸って」
「長門さ……ッ!」
「吐いて」
 吸って、吐いて、吸って、吐いて。指示のままに呼吸を繰り返す度、しがみついている身体が小刻みに跳ねた。吐いた息が古泉のシャツと身体のあいだに一度吸い込まれて、その生暖かい空気をまた自分で吸い込む。痙攣が少しずつ緩やかになる中、気付けば目の前のシャツは涙と唾液でぐっちゃぐちゃだ。最後に一つ深呼吸をすると、後頭部にかかっていた圧がゆっくりと離れていく。とても居たたまれない気持ちで濡れたシャツを眺めていると、何故か一度力強く抱きしめられた。よかった、と呟いた彼の表情は笑顔だったかどうか。
「正常値まで回復。もう、平気」
「なが、…!」
 となりから聞こえてきた平坦な声に対応しようと首を捻った瞬間、また視界が黒に覆われる。シャツに押し戻されたわけではない。眼前を塞いでいるのは、古泉の手の平だ。てっきり(何の理由があっての先入観かわからないが)冷たいものだと思い込んでいたそれは予想外に温かい、というか熱い。俺がしがみついて暴れた所為か、とも思ったが、それが何の所為にしろ俺が目隠しされる理由は、
「長門さん、早く、服を」
「問題は、特に」
「ありますから、早く」
 少しだけ焦りを含んだ古泉の声が、頭のすぐ後ろから聞こえる。そして真正面からは長門の声。音が飛び交う方向からして彼らは俺をあいだに挟んで顔を突き合わせているはずなので、古泉はもう少し焦ってもいいんじゃないかと随分と自分勝手に考えた。何せ会話からも推測出来るように、長門は上に何も着ていない状態なのである(一瞬見てしまった)(よって目隠しをされている)。しかし頭を冷静に回せば、俺が部屋に立ち入ったその瞬間、古泉はその手を長門の背中にあてていたわけだから今さら向かい合ったところで何の感慨もないのだろうか。今この目を覆っている俺より少し大きな手の平で、細く、骨の浮いた、白い背中を。いやいやそれは男子高校生としてどうだ、誤解が生じると宜しくないので言っておくが長門に対してどういう感情を抱いているかとかそういう問題ではない、そういう話になるんなら寧ろ今すぐこの手を振り払って古泉を正座させ小一時間、いや足りないな、夜が明けるまでここに至る経緯を問い質し滔々と説教めいた口調をもって俺と長門の思い出話を語ってやるところだが、前方で衣擦れの音、人が移動する気配。彼女が古泉との会話を成り立たせ、意思疎通を成した上で、何らかの行動に出ている現場に立ち合うことなど今までなかった所為か、漂う空気にも妙な緊張感があった。思わず思考を早送りしてしまうのは無意識に、飲み込まれるのを恐れたか、取り残されるのを畏れたのか。
「もう、いい」
「カーディガンは、」
「洗濯」
 はあ、と落胆をあらわにする古泉の溜め息で後頭部の髪の毛が僅かに揺れた。彼の声に焦りが混じっているのは、異性の裸体を目の前にしているからではない、と確信する。全ては俺に対しての配慮であり、俺に対しての怖れだ。
「おい、長門がいいって言ってるんだ、古泉」
「…いいでしょう」
 ゆっくりと、目隠しが外される。熱を帯びた手の平から解放された両目に蛍光灯は突き刺さるように痛く、数度の瞬きの後、ぼんやりとした輪郭をはっきりさせたのは。カーディガンを欠いた、しかしそれ以外は普段通りの長門の姿。そうして棒のような両脚で突っ立っている彼女は、相変わらず大袈裟なリアクションなど一切せず真っ直ぐと俺の顔を見据えていて、それがより古泉の動揺を煽っているように感じた。自由になった手を乾かすように(そしてそれにより感情の動きを誤魔化すように)ひらひらと空中に漂わせている彼は、どうやら座り込んでいるその位置から動く意志はないようで、明るくなってようやく自分の状態を把握した俺はすっかり古泉の膝のあいだに陣取っていたことになる、と気付く。あと数センチ背中を後方に倒せば、彼を椅子に見立てんばかりの体勢であり、そりゃ溜め息で髪の毛も揺れる、といった距離感だった。しかしその距離を窘める余裕などない。
 突然、目にも止まらぬスピードで(比喩表現であるが、実際スタートダッシュは正確に視認不可能だった)駆け寄ってくる長門に、予想の何もかもを裏切られた脳みそは一瞬思考を放棄した。我に返った直後、何故かガラス玉のような瞳が睫毛が触れ合う程の近さにあり、突撃を受けた身体は当然背後の古泉にその衝撃を逃がすこととなる。彼女の細い両腕がぐるりと俺の頭を抱き込んでいて、刹那古泉が立ち上がろうとしたようだったが、長門に押さえ込まれている俺、を受け止めてしまった彼、はどうやっても自力でその場を動くことは出来なかった。触れそうな唇が動き出す。
「今あなたが立ち合ったのは、情報統合思念体による対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース、彼らがTFEI端末と呼ぶもののうち、個体長門有希の定期メンテナンス。情報統合思念体は環境に於ける有機生命体個々の状態変化に干渉するという概念が理解出来ない為、その制御を同じ有機生命体に一任している。それが古泉一樹が所属する機関であり、彼はヒューマノイドインターフェースの仕組みを知り尚かつ状態を保持する為に必要な知識と技術を与えられている。彼らが鍵と呼ぶ、あなたと接触があるヒューマノイドインターフェースは全て彼の管轄。個体、朝倉涼子も、そう。本来ならばあなたがこの事実を知る予定はない。これは私のバグ、だから、」
 一度も瞬きをしないつるりとした眼球が近づいて、同じく開きっぱなしな俺の目玉に、それはこつんと衝突した。まるで色鮮やかなビー玉が、細い指先で、手遊びの延長で転がされたみたいに。表面が、ぬるりと滑る。
「おやすみなさい」
 リモコンの電源ボタンを押すよりもあっけなく、意識はそこで途切れた。



 憔悴しきった声で、古泉が連絡を寄越してから約十五分。私を出迎えた少女は一言、報告書もしくは反省文の作成は無意味、と倒れている鍵の頭をなでながら呟いた。彼女の忠告に従う義理も特にないので古泉から事情を聞き出そうとしても、得られた情報はメンテナンスが正常に完了していることだけ。鍵の所在地が問題であると言葉を重ねたところで、彼らの姿勢が崩れることはなかった。暑い夏の日、これ以上の追及は混乱をきたしかねないと判断した私は、古泉に鍵を送り届けるように命じ車での移動を許可する。駐車場に待機する新川さんに連絡し、鍵の自転車を荷台に積み込むよう指示をした。彼らを守ることもまた、私の役目なのである。
「あなた、階下のオートロックを解除したでしょう。彼が走り込んでくる、そのタイミングで」
 鍵を抱き起こした古泉が、洗濯機から乾燥の終わったカーディガンを引っ張り出している少女の背中に話し掛けた。洗濯槽の中にはカーディガン一枚しか入っていないようで、それに黙ったまま袖を通す少女はゆっくりと古泉に視線を合わせる。
「どうするんですか、彼が、目覚めたら。嗚呼、それとももう、情報は操作されているのでしょうか」
「古泉、早く行きなさい」
「…はい」
 足音をさせず歩く彼女が、小さな唇だけを器用に動かして、問題はない、と呟いた。玄関へ向かう古泉の行く手を阻むようにすっと立ち止まり、抱えられている鍵の頭をゆっくりとなでる。
「大丈夫」
「…何が、です?」
「私が、覚えている」
 ここであまり時間を潰すわけにはいかない、少女の肩にそっと触れると、彼女はゆっくりと九十度回転し奥の部屋へと歩き出した。慌てて、お大事に、と声を掛ける古泉の声に対して、ほんの僅か、少女の後頭部が揺れる。腕の中で目を閉じたままの鍵が、むずがる子どものように唸った後、小さく「長門、」と呼んだ。


 二十一回目の夏が、終わる。








20071104