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機関×古泉 苦手な方はご注意ください。 かなしくはなかった。それは日常的な行為であったし、時間の経過と共にその行為を意味として内包する殻は自然の摂理のようにズルズルとすり減っていき、今では挨拶と殆ど同じ意味を持っていた。凉宮ハルヒを発生源とする異空間、通称閉鎖空間の中で、常軌を逸するのは特別なことではない。一度でも足を踏み入れてしまえばその誰もが抱える悩み、決して逃れられない仕組みであったから、詰まる所怨むなら神を怨め、という話だ。だから、かなしくはなかった。現実とは隔絶された灰色の世界で、手足を振り乱し暴れる神人との戦いで負った傷が、無理な体勢を強いられる度に少しずつ開いて、いくらあらゆる感覚が麻痺するような何かが脳のどこかから分泌されているような状況であるとはいえ、肉を裂く痛みには勝てず酷く歪ませた表情が嗜虐心を煽り、それが例えば腕ならば、手当てしたばかりの真っ白な包帯から滲み溢れ流れ出る血を啜る際に、睨みつけるみたいに力を込めてしまう視線の鋭さすら、征服欲を掻き立てることも知っていた。ここまでくると、どうしてあの接戦の後にそれだけの体力が残っているのかが疑問として思い浮かぶこともたまにあったが、その点において彼らは十分に戦っている、彼女の近くに身を置く自分よりもずっと、出動回数は多いはずだ。それにもっと根本的なところから考えると、性欲は人間の三大欲求のひとつであるという。どこの誰が定義したのか知らないけれど、多くの人がそうであると理解している以上、正しいのか正しくないのかはさておき認知度の平均値を取れば常識と呼んでも差し支えない共通認識のはずだ。よって、食べなくても寝なくても死ぬのが人間だというのなら、きっとセックスをしなくても死ぬんだろう。それは閉鎖空間の中で行われる儀式めいた幼稚な反抗。僕は神を怨めない。だから、かなしくはなかった。 運が悪かったのか、気付かなかった自分が馬鹿なのか、それとも神が望んだのか。挨拶のようなそれの後、いつもより押し寄せる波が強すぎて、差し出された手を丁重に断ったのがいけなかった。そのとき僕は見るも無惨な格好をしていたが、それに構っていられないくらい、しばらく横になっていないと動き出せる気がしなかった。三人が限度だな、と薄れゆく意識を何とか引き止めながら考えたがそんなことはどうでもいい。まさか、と思ったのは閉鎖空間が消滅する寸前。灰色の世界に少しずつ色が加わり、穴の空いたコンクリートの壁に裂け目も何もない壁紙が貼られ、砂埃と足跡で模様のようになっていたカーペットは一瞬で強力な掃除機をかけたかのように(元からそこにあったであろう飲み物ををこぼした染みを残して)清潔さを取り戻し、吹っ飛ばされた際に僕が突き破ったガラス窓は継ぎ目もなく修復され、さらには同時に引きちぎってしまったカーテンも元の長さに戻っていく。実際それが、物理的に行われているわけでは勿論ない。閉鎖空間と呼ばれる異空間は、現存する住所に(発生源からそう遠くない範囲で)一層のフィルターをかけたような状態で存在する。例えば、閉鎖空間で神人が東京タワーを倒したとしても、現実世界では何の変化もない。時間軸、位置情報は同じであっても、結局は能力者である僕らしか立ち入れない凉宮ハルヒの意識下であるということだ。そうして、目の前に広がるのは絶望的なこの世の終わり。美しく、穏やかな、彼の寝顔が一メートルも離れていないところにあった。閉鎖空間の発生時、携帯電話を震わせる情報は現場の住所と出動の有無のみ。だから気付かなかった、つい先ほどまで神人と戦い、唾液やら涙やら精液やら血液やらを適当に吐き出していたその場所が、まさか彼の部屋だったなんて。これは大変だ、今すぐ死にたい、大変だ、今すぐ死ななければならない、ああ、もう、今すぐ死ぬべきだ、こんな汚れた身体で彼のとなりにいてはいけない。そのとき、窓の外から控え目なクラクションが聞こえてきた。聞き覚えのある、エンジン音やブレーキの音で車種を特定出来るのは僕の(限定的な超能力を除いて)数少ない特技のひとつだがそんなことも今はどうでもいい。迎えに来てくれたんだ、すぐにそれがわかったにも関わらず、動くことが出来ない。うんざりとした表情でこれ見よがしに悲観的な様子を装った森園生が長々と溜め息を吐いている効果音が耳元で聞こえるんじゃないかってくらい生々しく脳裏に浮かぶ。けれども、ほら、唾液と涙と精液と血液と埃がまざったぐちゃぐちゃの何かが、既にシーツを汚している。こともあろうに、閉鎖空間から放り出された先でベッドに着地してしまったわけだ。それならば、 僕はじっと、息を潜めてそのときを待つ。舌を噛むのはそれからでも遅くない、もしくは先程修復されたばかりの窓ガラスを突き破って飛び降りても構わないが、与えられた情報と記憶によるとこの部屋は二階であるはずなので、下に控えた上司と運転手に助けられて九死に一生を得るに決まっている。そんなことになってはこの先生きていく自信が(元々希薄だと言うのに)これっぽっちもなくなってしまうので選択肢からは外しておこう。舌を噛むのは技術が必要なんだろうか。研修では習わなかったな、奥歯に噛み砕いたら即死に至る毒薬でも詰まっていればいいのに。そんな海外ドラマのスパイみたいな自分を想像して自嘲気味に面白くなったところで時間にすれば数秒しか経っていない。僕はまだ、じっと息を潜めて待つ。 「こ、いずみ…?」 寝惚けたような顔が、瞬時に驚愕へと移り変わる。その一部始終をスーパースローで再生出来る程に網膜に焼き付けた。もう他の何もこの目に映さなくてもいい。嗚呼、それにしても何て美しい軽蔑の表情だ。もう一度、音量を上げたクラクションが鳴る。面倒なことはしてくれるなと、僕を呼ぶ。 「こんな夜中に、常識のない運転手には困ったものです。起こしてしまいましたか?」 拭い忘れた白濁のドロドロがこめかみから眼球に流れ落ちてきて、ふいに涙が流れた。さて、いつもの顔で笑えているかな。 かなしくはなかった。だって(どうせ)全て、神様の所為に出来る(される)んでしょう? だから、かなしいのは僕ではなく、何にも知らない神様の彼女だ。 20071015 |