普段ならそのタイミングで、わざわざ言ってこないのならこちらから聞き出す必要もない、とかそういう、軽く突き放したような態度を取ることが可能であったはずだ。いや寧ろそうすることが最善であったように思う。今となっては、だが。

 週明け、月曜日。古泉が、仰々しくも頭部に包帯を巻いて登校してきた。当然校内は朝からその話題で持ち切りであり(言ってやるのも面倒だが古泉一樹という一年九組の男子生徒はそれなりに女子の井戸端会議の話題をかっさらうには十分な素質がおありらしい)そうなれば必然、背後におわす団長様の機嫌も損なうわけだ。別に女子たちがきゃわきゃわとしていることが気に障るわけではなく、単純に、古泉の身を案じているのだろうが、彼女の表情からその違いを読み取るのにはいくらか年月と観察力の向上が必要なのである。長門に対するそれとはジャンル違いではあるが、俺も伊達に、毎日背中へ突き刺さる視線の槍を甘んじて受け続けているわけではない。機嫌が悪い、のではなく、心配をしている、ことくらいはわかる。
「ちょっとキョン」
「なんだ」
「あんた今日、古泉君のところに行った?」
 いや、と言いながら振り返ろうとして、次に飛んでくる叫び声の内容を本能的に悟ったので俺は、
「行ってくる」
 結局、ハルヒの表情を詳細まで読み取る前に、早足で教室を後にした。四限目が始まるチャイムは、あと一分もせずに無遠慮な大音量で響き渡るはずだ。その前に教室で姿勢正しく自分の席に着いている彼の首根っこを引っ掴んで、部室まで引き摺らなくてはならない。仕方がない、と溜め息を吐きつつ、俺の足は速度を落とすことをしなかった。

「古泉なら、さっきの休み時間から保健室行ってるよ」
 馬鹿か、そんな答えを聞きたいのではない。目の前の一年九組男子生徒に対して苛立つのは得策でないと理解しつつも、他に矛先が見当たらないのだから多少の八つ当たりは許して欲しい。多分、わかりやすく不快感を表情に出してしまったのだろう、わざわざ古泉の不在を知らせてくれた彼は無言で踵を返し教室の奥へと帰ってしまった。すまん、と心の内で思うだけは思って、次に急ぐのは保健室。

「あら? おかしいわね、今日は誰も休みにきていないけれど?」
 そんなことだろうとは思ったが。保健室に古泉の姿はなく(勿論痕跡もなく)律儀にドアをノックしてしまった自分に再度溜め息を吐く。チャイムは既に鳴り終えていた。次に思い付く場所は二箇所程あるが、片方は出来れば遠慮したい。あなたこそ具合が悪そうよ、と心配そうな顔を向ける保険医に会釈をしてドアを閉め、さて、と左右に頭を巡らせた。滅多なことを言うんじゃない、俺はいたって健康だ。

「おや、見つかってしまいましたか」
 こういう場合、大抵行きたくない方に目標のフラグが立っているものであり、それを学んだのはハルヒ絡みの云々、のおかげではあるのだが、まあ、
「おまえを探しているのは、ハルヒの意志だ」
「ああ」
「なんだその顔は」
 生徒会室にノックもせず乗り込んだ俺は、当然そこに古泉の姿を発見したわけで。見つけて早々、噂に聞いていた頭の包帯を見て心証を悪くしたばかりか、普段見ない今にも世界が終わりますね、みたいな表情で笑われてしまい。取り敢えずはドアを閉めるまでが精一杯である自分に僅かばかり動揺する。そこにいるのはただの古泉一樹で、ただ頭に包帯を巻いているだけで、しかし、
 自転車のブレーキが錆び付いていましてね、
「自転車のブレーキが錆び付いていましてね」
 ほら、俺でも思い付くような言い訳を持ち出して何でもなかったことのようにしようとする。甘いんだよ、他は騙せても、俺や、ハルヒはそうはいかないって、わかるだろうお前にも。
「そうですね」
 笑うな。
「それは、難しいですよ。あなたにも、諸事情はおわかりでしょう」
 わからないな。そんな、生徒会長が座る椅子に全体重を預けるようにして(それは姿勢の正しさを保てないという証拠と見ていいんだろう)更には胡乱な目で俺を見るお前に対して掛けてやれる言葉は生憎多くは持ち合わせていないのでね。授業中の学校というのはこうも静かなものなのか、と関係のないことを思うことで気を紛らわせる。小雨の降りかかるグラウンドでは、体育の授業も行われていない。薄暗い教室、そうか電気が、と思い至り(その必要もないのだろうが)近くにあった電気のスイッチに手をのばしかけたところで。
「部室は、」
 古泉が、変にトーンを落とした声で、まるでひとり言のように、
「誰かに会う可能性が、とても、高いですから」
 誰かに、ってお前、どうして俺にそんなことを言う。言い訳をする相手が違うだろう、おかげで電気をつけるタイミングを見失った。ふざけるな!
 と、俺はどうやら声に出していたらしく、真正面数メートル離れたところで項垂れていた古泉が驚いたように顔を上げるのを見た。その顔といったら、まるで部屋を片付けないことを親に叱られた幼稚園児のようで、悲壮感を見せつける手段としてはまあ、最良の選択だろう。彼の背景を飾る空模様が、その雨足を強めている。何かに追い立てられるように、気付けば、俺の手は包帯へとのびていた。
「なっ…、……ッ!!!」
「どうして、」
「は、離してくださ…っ…」
「どうして、お前は何も、」
 手の平をこめかみに当て、握り込むように薄い色の髪の毛と、その下に巻かれた包帯をまとめて引っ掴む。ぎゅう、と眉根を寄せる古泉の顔は、それでも普段通り整っているので、嫌味なばかりだと思いながらも何故か、少しの安堵を呼んだ。抗議の声は上げるものの、身体的な抵抗は一切してこない。ぎっ、と椅子が軋んで、揺れる空気の中に煙草の匂いを嗅いだ。すぐ横に立っているというのに、こちらに視線を合わせようとしないその意固地な態度が余計に気を立たせる。力を入れる度に包帯が緩んでいく、その下にある、彼を世界の終わりに追い詰めるもの。
「そ、う…っ、言われましても…!」
 ずれた包帯の下、直接手の平が触れる額、じっとりと張り付くような冷や汗が、俺の肌を濡らした瞬間。気付かれた、と焦ったように、古泉が手をはね除け立ち上がった。派手な効果音と共に床へ打ちつけられた椅子の無体な姿を見届けることなく、はね除けられたと思った腕はそのまま彼の左手に捕らえられ、急激な負荷に耐えることを強いられる。引っ張られた腕への力はそのまま全身を引き込み、引き摺られた先は結露に濡れる窓と、カーテンのあいだ。不快なまでに湿度の高すぎるその隙間で、古泉はようやくいつもの憎らしい笑顔を取り戻していた。
「なんだ」
「あなたは今、どうしていつも自分に僕の置かれた状況、もしくはその状況において僕が被った被害を知らせないのか、と問おうとしましたね」
「そんな、長ったらしいことを言おうとしたのではないな」
「すみません、要約するのはどうも苦手で」
「そうらしいな、知ってる」
 言い終わらないところで、元々近かった古泉は不自然な程にその整った顔を寄せてきて、そうしたかと思えばすぐに俺より長い両腕をぐるりと回し、ああどうしてこの状況で距離をゼロまで持って行かないといけないのか。ただ、肩口に乗った頭が酷く熱を持っていて、けれども首筋に当てられた額はやはり冷や汗で前髪諸共ぐしゃぐしゃで、精神的な配慮をしてやることは現時点で全く出来ないわけだが少なくとも本当に保健室行きであることは明確だった。こんなところで何をしているんだこいつは、団員の誰かに見つかるよりも、まずは自分の心配をすればいい。頭に包帯を巻いている時点で十分だ、ぶっ倒れて病院にいてくれる方がハルヒもわかりやすく大袈裟に騒ぎ易いだろうことぐらい、もうお前ならわかるだろう。
「ただ、包帯の理由は、詳しく教えろ。お前が、言いたいところまででいい。聞いてやる」
 普段ならこのタイミングで、わざわざ言ってこないのならこちらから聞き出す必要もない、とかそういう、軽く突き放したような態度を取ることが可能であったはずだ。いや寧ろそうすることが最善であったように思う。今となっては、だが。
「ええ、そうですね。勿論、お話しさせていただきましょう。楽しい話ではありませんが、あなたが聞いてくださるのなら。けれども、その前に、」
 おい待て誰かに、言いかけたところで窓の外を見て諦める。そんな、誕生日プレゼントを期待する小学生みたいな顔をするな、病人は病人らしく痛がってろ。悪あがきのような悪態は、今や豪雨と名付けてよい程の雨音に都合良く掻き消された。誰もいないグラウンドとカーテンのあいだ、頭部の傷(か、どうかは知らないが)による痛みで変に歪んだ笑顔が窺うようにゆっくりと、近づく。







20070909