まず、ここがどこか、というところから始めてしまうとその後全てを疑問符付きで話さなければいけなくなってしまうので、そしてそれは今目の前にいる男を相手にする場合酷く億劫な作業となるのでなるべくならば控えたい。というか控える。俺はそれをしない。断言したいだけの状況であるということをこんな冒頭で、しかも何ひとつ情景描写もないままお願いするのも大変申し訳ないのだが、まあ、察していただきたい。
 目の前には、まるでこの世に今存在する人(以外の人も)全てを片っ端からかなりの高確率で好意を持たせることに成功しそうな笑顔を湛えた古泉一樹、あとは灰色だ。
「さて、」
 間を持たせるのは全く構わないが、一体何に対しての余裕なのかさっぱりわからない表情で(見慣れたものではあるが、許容しているのかと問われればはっきりと否定しよう)俺との距離を測られても正直困る。背筋を何らかの冷たいものが走っていく感覚を伝えてやれないのが残念だという気持ちをご理解いただいた上で言うが、ここには今、俺と古泉しかいない。ここ、というのは制限された空間の中、例えば文芸部の部室であるとか、家の自室であるとか、今さら押し掛けることに何の躊躇いもない長門の住処とか、そういう壁があって床があって扉がある空間ではなく、今度こそ本気で吐き気を伴いながら言うのだが、今世界には俺と、古泉しかいない。
「ここはあくまで、あなたと僕の世界ですから」
 気味の悪いことを言うな。俺の心情を勝手に汲み取って相槌を入れている暇があるなら、とっとと間を持たせた話の続きを喋ってくれ。そういうのは長門と、カンが通常値以上に鋭さを増しているときのはた迷惑なハルヒだけでいい。
「すみません、僕も多少なりとも動揺しているようです」
「お前に動揺されると俺はどうしようもない。なぜなら、」
 俺は一人で閉鎖空間とやらに足を踏み入れる術など持たないはずだからだ。
「ええ、それは僕も存じておりますよ」
「そりゃあな」
 目に見える範囲での事実は、自分が北高の制服を着ているということと、古泉も同様だということと、お互いがどこかに立っている、ということだけだった。どこに立っているのかもわからないし、何時なのかもわからない。最初に述べた通り、その他全てが灰色絵の具で(白と黒を同じ割合でムラなく混ぜた色で、)きれいに塗りつぶしたようになっているからだ。ここまで美しく世界を一色に出来る程の腕を持っているならばそれは、芸大現役合格どころか首席卒業、卒業制作同大学美術館買い取りを飛び越えてノーベル賞ものだろう。なぜかって、そいつは三次元を天と地はおろか左右の境目すらなく均等に塗ってみせることが出来るみたいだからな。土踏まずに力を込めれば上下移動も自由に出来そうなこの空間で、かろうじて俺と古泉は同じ位置に立っている、らしい。
「では、話の続きですが、」
「ああ」
「もう一歩そちらへ、僕のこの両足を踏み出してもいいでしょうか」
 文字で表すならば、それはもう文字通りの苦笑を浮かべた彼が顔を歪める。笑顔をバリエーションが果たしてこの世にどれだけあるのか知らないが、上限があるのならばこいつはその全てをシュミレート出来るのではなかろうか。と、思ったのはそれが今まで見たことのない類いだったからで。
 こちらへ歩いてくるのは一向に構わない。許可がいるようなことでもないだろう。俺は数ミリでも身体を動かした瞬間に真っ逆さまに落ちる(どこに、かなんてわからないが)可能性がなくもないことを危惧して先程から微動だにしていないだけであり、お前が右足を踏み出した瞬間に奈落の底へさようなら、なんてことを懸念しないのであればいくらでもそうすればいい。俺が知らないだけで、ここがほんとうにお前のテリトリー内なのであれば、次の瞬間落とし穴に落ちる可能性などないことを知っているのかも知れないが。古泉は、予想に反して左足を先に動かした。
「ひとつだけ、お教え出来ることが」
「なんだ」
「ここは、凉宮さんのそれではありません」
 お教え出来ること、なのか、唯一把握出来ること、なのかあやしいところだ。ともかくハルヒのそれ、要するにハルヒの閉鎖空間ではない、ということの重要さを咄嗟に理解出来なかった俺が悪いのだろうが、言い終わった古泉は突然歩調を速め(おい、お前一歩って言っただろう)という脳内会議の結論を口にする間もなく。引っ掴まれたものが俺の身体に繋がっているものだと、それが視界に入ったことで認識してはじめて、俺は自分がやけにきちんとネクタイを締めていることを知った。
「っ…!」
 がつん、と衝突するビジョンが明確に思い描かれ、そうすれば大抵の人間は条件反射で目を閉じるように出来ているものだ。例外なく普通の人間である俺もその習性に準じたわけだが、一秒もしないうちに動物の本能に裏切られたことを実感する。所詮凡人はそんなものだ、と変に安心している隙は一瞬でも作ってはならない、説明するのも痛々しいので目を瞑っていたいが(物理的にも精神的にもな)それをする時間もない、なぜなら脊髄反射が右手の拳を振り上げる方が先だと全ての生体反応を差し置いて必死の訴えをかましているからだ。とか言ってる場合でもない。
 古泉がネクタイを、まるでバレエの一動作のような優雅な動きで引き寄せる腕を見たし、その動きに連動して顔が近づいてくるのも見た。そこから目を閉じたはずだが結果は明確だ。親愛の感情からくるものかどうかは俺の知ったことではないにしろ、とにかく、古泉の舌が俺の唇の上を這っているというのが現状の事実であり、そうなれば当然あとは打撃を与える手段を腕にするか脚にするか、に帰結する。えも言われぬ違和感が全神経を警告のように駆け巡り、俺は当初の予定通り拳を選択した。殴りつける瞬間、正確にはその直前、錆び付いた金属を舐めたような、
「ふざけるな!」
「これはまた、全力ですね」
「当たり前だ! お前、何を考えている!」
 クリティカルヒットを決めた俺の足元には頬に手をあてこちらを見上げる古泉一樹。の、はずだ。扇情的なものなど一切なく、べろりと唇を舐めた彼の舌には多分、俺の血がついている。
「あなた、怪我を、」
「そんなことはどうでもいい! 俺の質問に答え、」
 ろ、まで言い切らないうちに、それが全くどうでもよくないということに気が付いた。気が付かされたのだ、口元を拭う彼の指の間に覗く、金属の存在を視認したからだ。俺の知る古泉には、そんな付属品はなかったはずで、どうやらそれの所為で俺は唇を切りつけられた、らしい。語尾が不明確になるのは、その金属の器具が彼の所有物でないと証明する手立てがない程、自然であるように感じられたからで。
「…なんだそれは」
「ああ、これ、ですか? 矯正器具ですよ、歯列矯正です。ご存知ありませんか」
「それはわかる」
 ゆっくりと立ち上がる彼は、俺が殴った頬をまだしつこく気にしているようで(それなりに痛がってもらわないと割に合わないわけだが)手で顔を擦りながら、反対の手で下唇をめくって見せた。向かい合う距離は、最初よりも随分近い。間近で口内に嵌め込まれた器具を見せつけられる、見せろとリクエストしたわけでもないし観察してやる余裕も優しさも今の俺は持ち合わせていなかったが、それは記憶にあるはずの古泉ではないということを証明するために軽視してはならない物証だった。
「いつから、と思っていますね?」
「言い方が気に障るな」
「いつものことでしょう」
「だな。続けろ」
 取り敢えずこの時点で今俺たちがどこにいるのか、そしてその理由、は無視だ。大抵のことには驚かなくなった俺だったが、状況が状況であるし、少々大袈裟な言い草は許してもらうとして肉体的な損傷がある場合は例外にしたい。言うなれば朝倉に刺された、あのときと同じような心情なのだ。頭にのぼった血の熱さと、実際に流れている口元の赤すら忘れる。今の俺がしなければならないことは、目の前の彼が古泉一樹であることの証明、そしてその結果に対する対処だ。そんなことを思うのはこれまでの経験上からで、出来れば昨日の放課後に彼が歯医者に行ったと言い出すのが最速の解決であることに間違いはない。疑ってかかる癖など、本来なら身に付けたくはないのだ。しかし、
「残念ながら、僕は機関に属してから歯医者に今まで通ったことはありません。最後にあなたと顔を合わせた後は、そのまま帰宅しています」
「………」
「あくまで、今のあなたが存在する時間での話ではありますが」
「何が言いたい」
「三年前、それより前の僕が歯列矯正をしていなかったと証明出来ますか?」
 ややこしいことになってきた。前フリを全部吹っ飛ばしても脳みそのキャパシティが足りない説明を聞いている気がする、という時点で聞けていないということなのだろうが。わざと見えるようにしているのか、薄く唇を開いて笑う彼の顔は確かに、見知っているものであるはずなのだけれど。
「確かタイムトラベルは未経験だったはず、」
「ああ、その時点での古泉一樹の話をしていらっしゃいますか?」
「なにを、」
「そう、もしくは数年後の僕が歯列矯正をしなければならないと思い至る可能性も考慮していただいた方がいいでしょう」
 その必要はないように思えるが、と口を開けば、目の前の彼は嬉しそうに口角を上げる。どちらにしても状況が把握出来ないことに変わりはない、古泉がいつか言っていたように、機関とやらにどのような能力者が属しているかなど俺にはわからないからだ。言ってしまえば、過去でも、未来でも、そんなことはどうでもいい。考えるべきは、目の前の彼は、喪服のような詰め襟の学生服が酷く似合いそうだ、という点であり、
「納得がいかないようでしたらこれはどうでしょう。僕は、古泉一樹ではない。そうすれば物理的理論では合致するはずです、歯列矯正をしている僕は少なくとも、あなたと友人であることを願う彼ではない、と。有り得ない話ではないでしょう、だってここは、」

 あなたの意思が全ての、あなたの閉鎖空間なのですから。

 そんな灰色一面で物理的も何もあるか。再び顔を寄せてきた彼の口元で矯正器具が鈍く光るのを見て、今度は右脚を蹴り上げようとしたところで、俺はベッドから落ちた。
「ばかを言うな」
 寝惚けているわけではないが、詰まるところそういうことだ。当たり前のように自分以外誰もいない自室で、口に出しておかなければ気が済まない台詞だけを吐いておく。まるで負け犬の遠吠えだ。今さらハルヒ以外もあの閉鎖空間とやらを生み出す力を持っていると告白されたところで、その提案を突っ返す無配慮さもなくしてしまった俺ではあるが、それにしても。俺の知っている古泉は大人しくハルヒ専属でいてくれればいい。勝手な判断は身を滅ぼすぞ、どっかの急進派のようにな。
 ベッドへ這い上がる気力もなく、俺はそのまま目を閉じる。朝まではまだ時間があるはずだ。乾いていた唇を無意識に舐めたところで、その表面が、裂けて血を滲ませていることを知った。



 違和感、とは。それまでの経験を踏まえてどうにもしっくりこない、という感情のはずだ。どうして俺はあのとき、唇に触れた金属の器具を、違和感、だと感じたのか。







20070822