「バスの最前席に乗ると、大きな動物になったようにかんじるのよね」
 特に、何かに興味があるわけでもなさそうな仕草で、マウスを不規則にクリックしていたハルヒが呟いた。民営バスの公式サイトでも見ながらそんなことを言い出しているのか、それとも動物園からゾウとかそれに準ずるものが逃げ出した!みたいなニュースを見ているのか、窓の方に向いたモニタが実際のところ何を表示しているのか定かではないが今日もまた唐突だな、と思う。
「優しい気持ちになるわ」
 これまた殊勝なことを、と皮肉を口に出そうとしたけれど、ひとつ心当たりがあるので驚いた顔を見せるのはやめた。ちなみに、どの口が言うのか優しい気持ちになるらしいハルヒは、とてもじゃないが優しい表情をしていない。不機嫌をあらわにするいつものかんじではないが、それはきっとアレだ、たぶんお前は今からそのゾウを何らかの手段で狩るつもりなんだろう? 動物保護団体とでも真っ向から勝負を受けて立ちそうなお前のことだ(別に相手は「勝負」を挑んでくるわけではなかろうが)ゾウとの戦いを阻むものにはそれなりの制裁を! みたいな。
「あぁ、わかります」
 ほんとかよ。俺がハルヒVSゾウ(+彼を守ろうとする何らかの団体の皆さん)を持ち合わせの創造力を総動員で、おや意外となかなか上出来なかんじで鮮明にかつスペクタクルに想像していると、いつの間にか隣に座っていた古泉が勝手にハルヒの意見に賛同した。ほんとに話聞いて理解してんのかよ、と疑いつつ、斜め後ろからばかみたいに整った顔、の顎先から耳にかけてのラインを見る。理解しているのかどうかという点については俺も微妙なところではあるのだが、そもそも考えたことがないので答えは出なかった。まあ自分の意見を持ちそれを主張をしたところでそれが通ることはないのだが(この部室内では特に)。
「バスの最前席という場所には、通常道路を通行する移動手段では目にすることのない視界の広さがありますからね」
「そうなのよ!」
「高いところから見下ろせるっつーだけじゃないのか」
「だから大きな動物、って言ったじゃないの」
 そんなことはわかっている。俺が言いたいのは、それが結局優越感からきているものじゃないのかってことだ。弱肉強食の強部分に普段から身を置くやつにとっては、そんな物の見方も当たり前なのかも知れんが。別にそれが悪いとかそういう話ではない、単純に弱寄りの俺にはまるっと理解することは出来ないだけだ。
「いいわよ別に、キョンが理解しなくても」
 待て待て随分な言い草だな、部室内現状人口密度を考えてみろ、お前以外の四人の中でこの会話に参加してるのは俺と古泉だけだろう、二分の一の聴衆だぞ大事にしとけ。ハルヒは自分で切り出した話題に飽きたのか、はたまた俺が理解を示さないことに呆れたのか(口では「別にいい」と言いつつ、な)また黙ってモニタに喰らい付きはじめた。面白い記事でも見つけたのかも知れない、それが巡りめぐってどのような形にせよ自分の身に降り掛からぬよう祈りながら、
「古泉お前、バス通学だったか?」
「いいえ、違いますが、たまにバスを使用して移動することもあります」
「いつもあのタクシーかと思ったぜ」
「ふふ、わかりやすい皮肉ですね」
 悪かったな。少しだけ声をひそめた俺たちは、チェスの駒を盤上で適当に取り合いながら話を続ける。新しいお茶をサービスしに来てくれた朝比奈さんの首根っこを捕まえて何やら説明をしているハルヒの声が、今この部室内で一番の大音量だ。ひえぇ、とか、ふぁぁ、とか感心しているんだか不快感をあらわにしているのか判断しかねる、例えるなら天使の歌声そのものの感嘆詞もおまけである。一体何のサイトを取っ捕まえた可愛らしい上級生に覗き込ませているんだあいつは。

「バス、の話ですが」
 一勝負終えたタイミングで、古泉が思い出したように話題を掘り返してきた。ハルヒは相変わらず朝比奈さんを抱え込んだままネットサーフィン中で、長門は西日にも動じることなく体重の十分の一はありそうなハードカバー(というよりは最早辞書レベル)を大事に抱え込んでいる。もう一度チェスをするか、別のボードゲームに興じるか、を考えていた俺は一瞬どのバスの話だと思ったがいくらなんでも 数十分前の話、すぐに思い出した。
「俺はもう、ゾウを襲わずに済むならそれでいい」
「何の話ですか」
「こっちの話だ」
 言いながら、結局駒を所定の位置に並べ直しはじめる。俺の手元を見て、古泉も自分の分をかき集めた。
「で? お前の話は何なんだ」
「ああ、そうでした。いえ、凉宮さんが話しはじめたとき、あなたの対応が一瞬遅れた瞬間があったように見受けられましたので。何か、思うところでもあったのかと」
「よく見てんなあ、お前」
 頭の後ろで手を組んで、錆び付いたパイプ椅子の背持たれに体重を預ける。古泉が俺の表情の変化まで把握していることに違和感を覚えたのは最初のうちだけだ、彼はいつでも部屋の隅々にまで神経を張り巡らせていて、きっと長門が十分間のあいだに何ページめくったかまで見ているはずだった。そういう風に日常を送るように訓練されているんだろう、それに突っ込みを入れるのは互いにとって有益ではないと判断したのは割と早い段階からだった。別に逃げているとか避けているとかいうわけではなくて、まあだからといって時期を見ているわけでもないんだが。
 至極、穏やかに微笑む古泉の表情を見ながら、
「何年か前、家族で遊園地に行ったときな、」
「ええ」
「妹と二人で観覧車に乗ったんだが、そのときに妹が言ったんだ、」
 大変だよキョン君!お母さんたち小さい! 自分たちが高いところにいるから、とかそういうことを考えられない年齢ではなかったはずだがまあそれは置いておこう、とにかく観覧車に乗っている間中ずっと、妹はガラスに額をぎゅうぎゅうと押し付けて下を見ながら、かわいそうかわいそうと足をじたばたさせていた。真面目に説明するのが先か、取り敢えずこの観覧車を揺らし続けるその足を止めるのが先か、まるで瞬間接着剤で椅子に貼付けられたかのようにじっとして考えた俺は、
「見失うんじゃないぞ、お前が守ってやればいいんだ、ってな」
「あなたがそう言ったのですか」
「言ったのですよ」
 それはそれは、と、古泉は見たことのない表情で俯いた。どうしてお前が照れる必要がある。問いただそうとしたがしかしそれよりも、口元を片手で隠して笑う仕草があまりに上品で頭にくるので結局俺はその件についてそれ以上の追及を止めた。
「まあそれが、ハルヒの言う優しい気持ちってやつと似てるのかもな、と」
「それで、対応が少し遅れたのですね」
「そういうこと」
 どうでもいい俺の思い出話が終わったところで、じゃあもう一勝負、背持たれに預けていた体重を戻して駒をひとつ手に取った。
「古泉?」
 先程の姿勢を保ち俯いたまま、じっとしている。今の話で何を考え込むところがあったというのだ。少し手をのばして、彼の手元を駒でコツンと叩いてやる。
「ああ、すいません」
「いや、いいけど、」
 どうかしたか? と続ける前に、長門がぱたんと本を閉じた。

「じゃあね! 明日は駅前に九時集合よ、厳守!」
 各々自分の荷物を抱え、朝比奈さんの着替えを邪魔しないよう男二人は先に部室を後にする。威勢のいいハルヒの声は確実に他部室にまで響いていると断言してもいい、この世の不思議を探すSOS団の活動内容が集合場所と時間まで公になってもいいものかと思ったのはまあ、一瞬だが。生徒玄関で靴を履き替え、グラウンドを横切って校門まで出る。並んで歩く古泉が黙ったままなのが変に気にかかった。いつもべらべらべらとよくわからないことを並べ立てるやつなのに、と思って横目で表情を窺えば彼はいつもと変わらぬ、かちんとくるニヤケ顔。考え込んでるならそれ相応の表情でもしとけよ気遣わせやがって、と思ったところで、
「あなた、高いところがお得意ではないのですね」
「はあ?」
「ね」
 ね、じゃない。部室を出てから今までそんなこと考えてたのかお前は。
「今度、どこかに出掛けるときはバスを使う経路にしましょうか」
「言っておくが、バスの最前席は一人しか座れない。そんなのハルヒが座るに決まっているだろう」
「あはは、それもそうですね」
 じゃあな、と別れる瞬間まで古泉の上機嫌は続き、よくわからない会話によくわからない相槌を打たされつつ。一体何に興味を持ったのかは知らないが取り敢えず、観覧車は二人で、という誘いは丁重にお断りしておいた。







20070819