なにごとも、タイミングが大切。哲学や数学や思想の大先生をお呼びせずとも、この世に生きる人間(と、言い切ってしまうのもまあ諸々と問題はある)が誰から教えられることなく言ってしまえば本能でわかるようなこと。常識、と定義してしまうと凉宮ハルヒ問題に引っ掛かるのでやめるが、境界線の見えないあやふやなもので括れば大体そんなところだろう。それが、無意識でも、意識的だとしても。

 帰宅時、母親が家を空けていることがわかっているとき、俺の行動パターンはだいたい決まっている。だいたい、というのは概ね言葉通りの「大体」で、毎回そうするのかと問われれば当然例外もあるが、まあ、だいたい、そうして生きていきたいと考えている俺の希望が反映された曖昧さだ。家の近くのコンビニで自転車をとめる。店内に入ってすぐ右に曲がって一周、何を手に取ることもなく雑誌コーナーまで戻ってきて並んでいる本のタイトルだけを流して見る。気になるものがなければ通り過ぎて、ペットボトルを自分の分と妹の分、計二本適当に選ぶ。夕飯がないとわかっていれば食品を一通り物色してレジへ。終了。十分もかからない。
 そこで、だ。いつもそのタイミングで、携帯がマナーモードにしている意味がないくらいの振動音で俺を呼ぶ。
「はい」
「こんばんは」
「こんばんは、お前はもう家か」
 古泉からの着信。たいした用事がないことはわかっているので、たいした反応はしないことにしている。向こうがそれを望んでいる気配もないし、暇つぶしという言い方もおかしいが(潰す程の暇など実際はない)(まあそれはそれで)部室で意味もなくボードゲームをやり続けているのと同じだ。ハルヒからの呼び出しと、宿題の答えを聞いてくる谷口や国木田のメール、母親からの連絡、それくらいにしか使われない俺の携帯電話で、最近頻度ランキング上位に喰い込むのが古泉からの、
 かかってくること自体に問題はない。コンビニで購入した少しの食料をカゴに放り込んだ自転車を押しながら家に帰る途中であるし、他に急な用事もない。あの笑顔は確かに腹立たしいが、声を聞いただけで電話を切りたくなるとかそういうわけでもないので、右手に携帯、左手は自転車のハンドル。
「いえ、少し寄り道をしまして。僕も、今は家までの帰り道です」
「バイトか」
「違いますよ、最近は落ち着いたものです」
 あなたのおかげで、と笑うので、無視をする。電話中にそれをすると、相手の表情もなにも見えないので少なくとも俺は困ったものだとかんじるのだが、古泉はそうでもないらしい。勝手に今自分が歩いている道路の名前や、さっき本屋で買ったという本のタイトルやらを述べ(長い上に専門用語が入っていたので何を書いたものなのかは全くわからない)、ああ、とか、うん、とかいう俺の相槌を聞いているんだかいないんだか判断しかねる調子で話し続けた。この時間俺に喋りかけることに何か意味はあるのか、と問うたのは最初の一回だけでやめている。意味は特に、と微笑まれてはそれに続ける語句などない(顔は見えないので予想だが)。
 要するに問題は、僕も、と言い切られることにある。通話を開始してから二言、俺は現状を彼に伝えることなどしていないのに、だ。
「うわ」
「どうかしましたか?」
「雨が、」
「ああ、ほんとうだ。こちらもですよ」
 そりゃそうだろうよ、と思いながら、俺は突然雲行きのあやしくなったグレーの空を少しだけ見上げる。朝からお世辞にも天気がいいとは言えない空ではあったものの、帰り着くまではぎりぎりいけるだろうと予想を立てていたのに。俺の予想などここ数ヶ月あたった試しはないが、せめて自然現象くらい俺の味方をしてくれたっていいものを、いや、まあ、干渉が全くないのかどうかは知らないが(知らないことにしておきたいが)とにかく、本降りになる前に。
「急いでくださいね」
「言われなくても。お前も悠長に歩いてんなよ」
「ありがとうございます。今、傘を広げたところですので、」
「裏切りもの!」
 携帯を耳と右肩のあいだに挟んで自転車に跨がった。いつもはコンビニから家まではなんとなく徒歩なのだけれど、雨が強くなってきたのでそういうわけにもいかない。別に歩くことにポリシーがあるわけじゃなし、俺は急いで自転車を進め雨を切った。顔を濡らす粒が大きくなってきて、空にもう隙間はない。ざあ、という車が水を大袈裟に撥ねる音が、向こう側から古泉の声とまざって聞こえた。似ているな、とかんじたのが一体何に関してなのかまでは頭が回らなかったが、なんとなく。
「ああ、それで、この電話の用件ですが」
「今日はあるのか用件が」
「ええ、あなた、部室に傘をお忘れでしたよ」
 あまりにもそれを、事も無げに言うので、
「お前は雨が降ると知っていて、今傘を持っているんだろう?」
「はい、あなたもそう思って傘を学校に持っていらしたんでしょう?」
「まあな」
「忘れたことを告げようにも、もう部室を出た後でしたので」
 暗に、じゃあ事前に知らせてくれ、と言ってはみたが、正論で返されてしまっては仕方がない。どうせなら通話の冒頭で、とも考える。しかしその時点では雨が降り出していないのだから、告げられても仕方がない。どっちにしろ同じだ。
 会話のスパンが短くなるにつれ、雨は本格的に強くなる。
「俺がコンビニで、傘を買っている可能性もあるだろう」
「あなたはそういう、無駄な買い物はしませんよ。傘をなくされたのならともかく、それはちゃんと、部室にあるわけですから」
 変に反抗してしまったので、変な回答がきてしまった。ここで無視をするのは正当だろう、俺は今必死にペダルを漕ぐのに忙しいのだからな。携帯を手に持っていない状態でハンドルを操作するのは少々技術を要したが、何とか家の前まで辿り着く。傘を持った余裕の古泉は、俺の頑張りを無視してまたタイトルの長い本の解説をし始めていた。何と言うか、いろいろと通じないというか、動じないというか。こういうのは、全くハルヒが集めてきたやつはみんな、という諦めで片付くので便利だ。ほんとうに利便性があるのかは置いておいて、単に自分を易しく納得させるための言い訳なのであるけれど。水飛沫をあげて、自転車をとめる。
「到着されました?」
「もうほんと、エスパーかお前」
「ええ、まあそのようなものですね。ですが今のは、そちらから聞こえる状況の、」
「あー、もういい」
 まるで、実はお前の上は晴れてるんじゃないのか、と疑いたくなるほど爽やかな笑い声をあげて、古泉は自分への仕打ちをきれいに右から左へ流した。
「失礼、ではまた明日」
「おう、じゃあな」
 髪の毛の中に溜まった水を手で払いながら玄関の扉を開ける。それから、通話を終了するためのボタンに指を。彼は自分からそれをしないので、いつものように、
「待て待て待て」
 ボタンを押せば、通話時間が表示されるはずの、携帯のディスプレイ。それがどうしたことか、今の空模様を写したように真っ暗になっていた。他のボタンを押してもディスプレイが光を取り戻すことはなく、当然、もう古泉の声は聞こえない。復帰しない携帯を握り締めて立ち尽くす俺に驚いた妹が(健気にも帰宅に気付いて出迎えにきてくれたのに、)慌てて洗面所へバスタオルを取りに走った。

 いつからだ。少なくとも家の前に立ったところまでは、会話は成り立っていたはずなのに、どういうことだ。そもそも俺は今日、母親の帰りが遅くなることなど学校で話してはいない。なぜなら連絡がきたのは、部活の終了後。にも関わらず彼は、当然のように俺が着信を邪険にしないタイミングで携帯を震わせた。さらには傘、雨についての用件。
 あいつほんとは、普通にエスパーなんじゃないのか。


 翌日、壊された(と、いうことにしておこう)携帯を登校してすぐに古泉へ突き付けると、二時限目の休み時間にはまるで時間を戻されたかのような状態で俺の手元に戻ってきた。疑いはますます、と思ったが、どうせ長門にでも頼み込んだんだろう。そんなところでの職権乱用が許されるのかどうかは、俺の知ったことではない。律儀にも昨日の通話記録を残したそれは、きちんと彼の名前を表示していた。


 なにごとも、タイミングが大切。この世に生きる人間が誰から教えられることなく言ってしまえば本能でわかるようなこと。それが超能力のような意識下でなく、理解し切れないほどの感情の範囲でどうにかなってしまうことなど、そのときの俺には全くもってわからなかった。彼がエスパーである可能性を捨て切れない、という思考を俺にもたらす可能性が理解を邪魔していたのだから、お互いさまだ。

 それを証明する小さなオチとして、部室に忘れてしまった傘は、当日ちゃっかりハルヒに使われていた。まあ、それはそれで。







20070723