彼も、喫煙者であれば、煙草を吸っているときがどういうときであるのかぐらいわかりそうなものであるのに。いつもそう思って、そしてそれを思うのはそのときだけだ。緩く、とても怠慢に口元をなぞる指は、冬になれば乾燥してかさついて、夏は何を触ったわけでもないのに湿っている。煙草を吸っている人間の口元を触るなど、どういう神経だと思わなくもないが、くわえているものの先に火が灯っているということを考慮すれば無下に出来ないのが事実だ。それを全て察してやっていることなんだろう、知っていて、放っておくのが悪いのだとすればそれは俺の所為であるし、逆に言えば俺の所為でも無い。ただ、会社の喫煙所でそれをやられるのは、さすがに少し、他からは見慣れない光景であるだろうから控えて欲しいと。言ったことは無いが態度では示しているつもりだった。
「…千石」
「みーなみ、煙草くわえたまま喋ると落ちちゃうよ」
「お前の手にな」
「あはは、酷いなあ」
 残業中、仕事をあと少しだけ残し、どうしても耐えられなくなってやってきた喫煙所。指定席にしている一番端の椅子に座り込んで、今、目の前には視線の高さに膝を折った千石。部署の違う彼がこの時間まで会社に残っていること自体俺は知らなかったのに、千石はどうしてか俺が煙草に火を着けた瞬間にいつも、喫煙所のある廊下にふらりと現れる。そうしてたまたま俺を見つけたかのような表情を毎回して見せてから、ガラスの壁をこんこん、と叩くのだ。そっちいっていい?というようなジェスチャーをされれば、特に断る理由も無いので頷いてしまう。喫煙所に入ってきたって千石は煙草を吸うわけではなく、俺の目の前まできて、すっとひざまずくようにして。俺が手に持っていた煙草を口にくわえる瞬間を、まるで獣が獲物を狙うような目で(彼は昔からこれが得意だ)(そして俺はこれが得意でない)逃さずに捕らえ、迷い無く腕をのばしてくるのだ。はねのけることはもう随分前に止めてしまったこれは俺が煙草を吸い出した頃からずっと続けられているものだから。千石にとってはもしかしたら、何かの儀式なのかも知れない。そういうことを例えば願掛け的なものを、彼が好んでやることも、知っていた。だからといって俺はその意味を突き詰めていくことはしないし、その方が彼も安心しているような気がした。
「せんごく」
「なあに俺の手燃えちゃうから止めて」
「会社では」
「…うん、うんわかってる、ごめんね」
 ゆるゆると、唇の輪郭を取るように千石の親指が滑る。彼の指のように、俺の唇も乾いているから、擦れると少し、かさかさと音がするような気がした。煙草をくわえている部分は当然、少しだけ開いているから、千石はいつもそこを少しだけめくるようにして指を湿らせる。擦り付けるようにそれは俺の唇の上で線を引いて、それをされるのは指が離れていく直前の合図だった。
「南、もう煙草短くなっちゃう」
「ああ」
「俺仕事、戻るね」
「ああ」
 短くなったのはお前の所為だ、それを告げないまま、喫煙所を出ていく千石の背中を見る。じゃあね、といつもの口調で後ろ手にひらひらと振るそれに、見えていないと知りながら軽く右手を上げた。もう殆ど吸えなくなった煙草を、やっと指のあいだに挟み直してから、二度、三度、間を空けずに吸って、吐いた。
 お前は知らない。唇を触られているあいだ俺が、手の上に火を落としてしまわぬよう、フィルターを必死で噛んでいることを、知らないんだ。





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喫煙南そのさん
20051123