南が、少なくとも俺よりは音楽に強いということを、知っている。強いって言い方もおかしいか、でも俺だって聴かないわけじゃないしテレビやCD屋さんの店頭を賑わすアーティストぐらいは借りてきてパソコンに落とすという手間は惜しまない、だからやはり南は俺より強いということになる。だって彼はご贔屓のアーティストの新譜の発売日前ともなるとそわそわし部活を終えた途端に店に走り、ライヴのチケット取りは電話で数時間も粘るし(まあ有り難いことに俺の分まで取ってくれるわけなんだけど如何せん彼の趣味は俺と少しずれている)ライヴ当日はそれはもうこちらまで興奮する程の気迫であるし、そうなれば当然南の生活には常に音楽がくっついてきているわけでね、そいつは隙を見て俺に喧嘩を売ってくるのだ。

 残暑、というにはまだ暑い。いや残暑というのはそういうものなのか。十四年やそこら生きてきたぐらいじゃそんなの記憶されてない、だいたいその半分は自分が何をしていたのかすら覚えてないんだからさあ、何月が何度だったかなんてそんなの記憶の彼方だぜ。なんて誰にも通用しない言い訳を一人抱えながら髪を束にして先から頬へと伝う汗を拭いつつ、いまだじりじりとしている太陽を背中に、熱気のこもる部室の扉を開けた。思わず扉を閉めてしまいたくなる欲を必死に押さえ付ける。何せここで負けてしまったら家に帰れないのだ。汗に濡れて深緑に色を変えたユニフォームに手の平をあればぐじゅと嫌な音を立てる、いやいやこれは着替えないわけにはいかないでしょ、俺は汗の匂いが充満し更には大人数で熱を発している部室にふらりと足を踏み入れた。まあ、結局それも日常、慣れというよりは生活の一部だ。
「あーい南おつかれっ」
「おう、おつかれ」
「コートの片付け終わったよ」
「あ、サンキュ」
 部活後、コートを使う前の状態に戻し整備をするのは主に一年生の仕事で、そしてそれを見届け確認するのは副部長である俺の仕事だ。部長は部誌を書くという俺には到底出来ない大仕事が残っているので、細かい仕事は分担、というわけだ。だから南は別にお礼を言わなくてもいいことなんだけど、彼は毎日報告をするとサンキュ、と返してくれる。言わなきゃいけないと思っているとかそういうことじゃなくただ言わなくてもいいってことを毎日忘れているだけなんだろうけど。でも俺はそれが嬉しいから言わなくてもいいんだよ、って教えてあげたのはこれまで数回だけだ。
「そうだ南、明日の予定なんだけど」
「んー」
「練習試合、集合はコートに六時半でいいかな」
「んー」
「ちょっとお、聞いてる?」
「…聞こえにくい」
 俺のロッカーと南のロッカーはとなりなので、並んでしまえば大きな声をあげる必要も無い。自分の着替えを進めながら、珍しく(って自分で言うのも悲しいものだけれど)業務連絡内容を副部長らしく確認しているというのに、部長さんときたらもごもごと曖昧な返事をするばかりか、聞こえにくいとまで言い出した。俺の左にある南のロッカーは、扉が開いていると彼の姿をすっかり隠してしまう。それでも声が聞こえない程では無いはずだ実際いつもその状態で会話を交わしている。
「………南さあ」
「あ?…ん、いや、ちょっと待て」
「待つけど」
「んー」
「そりゃ聞こえないと思いますよ」
「んー」
「なんでいっつも忘れるのかなあ」
 山吹中の制服は、冬も夏も上着の前はホックでとまっている。だからそれさえ外しておけば背中に羽織って両腕を抜くことが可能なのであり、着脱はとても簡単だというか簡単であるように出来ている。それにも関わらず、この南健太郎という男は、天性の面倒臭がりであるがためにホックを外さずに脱いだり着たりするわけだ。外すことを忘れているだけなのかも知れないがそれはあんまりなので可能性として残さないことにしている。まあだから要するにこうして制服から頭を抜けずにもごもごとすることがたまにある、ってことだ。以前はかいがいしくホックを外してやったりもしてやったが、今はもう慣れたので見守ってやる。
「ん……ん、んん…、あっ」
「あのねえ…」
「はー抜けたー」
「そういう声出すのやめてくれる…」
「あ?集合時間はそれでいいと思う、いつも通りだろ」
「…聞こえてたんじゃん」
 見守っていた所為で自分の着替えは全く進んでいない、手に取ったところで止まっていた制汗スプレーを南に向けて噴射したが、たいしたリアクションも無く。連絡内容も決まったのでまあ良しとするか、じゃあここからは楽しいおはなしをしようじゃないの、明日の練習試合後そのままお泊まり行ってもいいですか、それを切り出す為に早々と業務連絡の確認を済ませた俺の努力を報っておくれ。
「ねえみなみ」
「あ?」
「明日の練習試合の後さあ」
「さっき決めたじゃねえか」
「違ーうよ、時間のはなしじゃなくて」
「あ!」
「え?」
 一回で話が通じないまでは大丈夫、それはいつものことなので頑張れる、しかしそれも、伝わらなくても彼の興味がこちらにあるうちは通じるまで話すことが出来るという状況があるからこそ耐えられるのであって。突然自分のロッカーに頭を突っ込んで興味を移した南は、俺が疑問の声を上げると同時に戻ってきた。何に慌てたのか髪を乱した彼の頭を整えるように撫で付けてやる。その手を払いはしないものの眉を寄せて不快を表す、まあお互い汗でべたべただから無理もないけど。
「お前も汗でぐしゃぐしゃだな」
「へ?」
 南の手が俺の髪にのびてきて、俺が彼にそうしたようにぐしゃと撫でられた。ここまで話がぽんぽんと飛んでいってしまうこともなかなか無い、考えられる理由としては、機嫌が良くなった、ってのが多いんだけど、ん?…え、なんでだ?
「どしたの南、何で今なでなでした?」
「………」
 そうしてすっと身を引いてまたロッカーの扉の向こうに隠れた南から、ついには応答が無くなってしまった。まったくどうしてしまったのかわからない。
「え、みなみ?」
「………」
「あーあー!」
 ぴんときた、ので、俺は脱ぎかけだったユニフォームをがばあっと首から抜いて南に押し付け、耳元で、大声で叫んでやった。俺と南をあいだを遮っていた、ロッカーの扉が肩口にひやりと冷たい。部室内は当然揃いも揃って耳を塞いだわけだが当の南はと言えば、全く我関せずといった風にロッカーへ向かったままだ。こちらを向きもしない。しかしユニフォームの感触はさすがに伝わっているだろうから、半分無視をされているということはわかる。要するにもう夢中なのだ、興味の移ってしまった先、それは彼の耳を塞ぐ、小さなイヤホン。
「もー!みなみってばあ〜!」
「千石さん、無駄ですからその声やめて下さい」
「なに!何なの室町君!君が何を知っているというの!」
「今日、新譜の発売日なんですよ、南部長ご贔屓のバンドが」
「…あー、そういうことですか」
 そうと知れば、まあ、俺の発する騒音や迷惑行為など何の意味もなさないということだ。俺だって諦めるということを知らないわけではないし、汗でぐしゃぐしゃのユニフォームはおとなしく自分のロッカーに放り込む。部室内がふうと一息吐いたように聞こえ、それは部員の誰かが窓を開けたのと同時だった。面倒臭がりの南は部活開始のときに帰りの手間を省くため窓を全部施錠してしまうので、部活終わりの熱気を逃す術を、みんなは我慢に耐えかねるまで忘れてしまうのだ。まあどっちもどっちだし、俺は南が悪いとは思っていない。大好きな音楽に聴き惚れながら上機嫌で帰り支度を進める南の背中に、懲りずにぺたりとくっついた。俺に興味がこないなら、逆に言えばやりたい放題であるということなのだ。俺はそれを知っている、言うなれば勝者である。
「今日、いっしょに帰ろうね」
「んー」
「明日、お泊まりしてもいい?」
「んー」
「えへへやった、みんな今の聞いたね!」
 ばっと振り返りぞろぞろと帰ろうとする部員たちに向けて声を張り上げた。彼らの殆どは、あーはいはい、と手をひらひらとさせながら全くこちらを見ないで部室を出て行く。東方だけが南が部誌を書き易いよう机の上を整えていて、まさみちゃーんと猫撫で声を投げつければ、千石も早く着替えろよ、とこれまたこちらを見ずに声だけが返ってきた。ロッカーの中を特に整頓せず扉を閉めた南は、俺を背中に貼り付けたままずるずると東方のいる方へ歩き出す。耳の裏にキスしたって、頭を抱えるように撫でたって、音に全てを持ってかれてる今は微塵だって応えてくれないけれど。いいさ、売られた喧嘩は買いましょう、俺はそれすら満喫してやるぜ。
「よっしゃ南!さっさと部誌書いちゃってねー!」
 南が机にたどりついたところで、ぴょんっと背中から飛び退いて、俺も急いで着替えを進めた。負けるもんか、来月のライヴだって意地でも楽しんでやる、さっさと帰りの準備をして、アルバムを買いに行くならそれにだって付き合うさ。気合いを入れ直した俺を見て、東方は優しく苦笑した後、部誌を書き出す南にそっとボールペンを差し出した。





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書き切らずに放っておいたら寒い時期になってしまった
20051107