そう、べつに、俺の手を引くのは彼の役目ではなくて、そう、俺の手は。
 東方の家はなんていうか、とても普通のにおいがする。彼の地味ーズたる所以?東方が住んでいるということはもちろん彼のにおいもここにあってああこんなところから東方は作られていくのかと来るたび、そんなことをぼんやり考える。普通が一番だ、だから俺は君のにおいがとてもすきだよ、思ってもみないことを、本当はどこかで思っているのかも知れないことを、だから地味ってのは決してけなしているわけではなくてむしろ褒め言葉だということをおこがましくも、口には出さないけれど。すきだよというのは少し、言い過ぎかな。
「千石」
 そうだから、いつも玄関口でそんなことを思ってぼんやりしてしまうから、必ず呼ばれる名前は嫌いじゃない。東方が発する千石、は、こっちにこいよとか、どうしたんだなにかんがえてるとか、そんな類いのものではなくて、おまえはそこにいるのか、みたいな、そういう、優しくないかんじだ大抵。でもそれが心地良いってのは、二回目になるけど、口には出さない。手はさしのべられないだってそれは彼の役目ではないからだ。それでも俺はひょいひょいと彼の後をついていく。のべる手は届かない、わけではなくて俺は手をのばさない。
「お休みなのにごめんね、きちゃって」
「俺が呼んだんだろ、どうしたお前」
「あー、うん、そうだったそうだった」
 どすんとソファに沈む東方はとても偉そうだ。けれどここは彼の家であるのでそれは偉そうとはまた違ったものであってそれがもし常時彼がそのソファに座るときそうしているのなら、うん、それはそれで俺にとってもいいことなのだと、すこし、口角が上がるのを隠せない。偉そうな東方はべつに俺を呼ぶわけでもなくて、客人に対してもてなそうとする姿勢もなくて(俺が客人でないと言われてしまえばそれまでだ)ほんの数秒、いつも時を持て余す。もちろんそんな素振りは見せないので俺はそそくさと無断で冷蔵庫を物色するのだ、いつも。決まったタイミングで踵を返す俺を、本当にそちらも決まったタイミングで笑う東方を、背中で見る。この家の冷蔵庫はひどいくらいに整頓されていて、俺の身内がいかにずさんかを、そして俺が紛れも無くその血を引いているかを、嫌でも思い知らされるのだ。東方はきっと、それも含めて笑っているに違いない。彼はいつも俺の家族を褒めてくれる。冷蔵庫をいつもの癖でがさがさとかきわけてしまう俺を、彼は笑う。
「牛乳、あるだろ」
「お酒がいいなあ」
「馬鹿か、背伸ばしとけよ」
「なにそれセクハラ!」
 遠いところから投げ掛けられる東方の言葉は何にも遮られることもなく俺の耳にささる。コートの上でも学校の廊下でも彼の自宅でもだ。からからと笑う声も全てだ。ときどきそれが耳に痛いことを彼は知らないし知られてもいけないとおもってるし俺も実際どうなのか知らない。冷蔵庫のドアのとこに入っている、きちんと並んだオレンジジュースのとなりに二本、開いてない牛乳と賞味期限間近の牛乳。俺だってさすがにそこまで横暴じゃないわけで、開いている牛乳の方をその列を乱して取り出した。たぷんと揺れる白い液体は、結構激しく扱っても俺の手を汚さない。この軽さから想像するにあとコップ一杯分もないんじゃないかなていうかコップが見当たらないんだけどどうなのかな。前に来たときにそれこそ冷蔵庫以上にきちんとコップが整列していたはずの棚を遠巻きに物色してもかけらも見つけられない。
「あー、コップ使わなくていいよ、お前それ全部飲め」
「そのまま飲めって?はしたないよ東方くん」
「俺がそうするわけじゃないから構わない」
 いまだソファで偉そうに身体をのばしている東方が明後日の方向を見ながらそんなことを言う。俺を見ろ俺を。今手に持った牛乳を頭の上でくるりと逆さまにしてぶちまけるビジョンを明確に想像してひどく興奮した。いやしかし、それをするには足りないな、開いてない方の牛乳を持ち出してくるには多過ぎる。大きな音を立てて冷蔵庫を閉め(もちろん壊れない程度にだ)牛乳のパックに直接口をつけ一気に飲み干して空になったそれをシンクに投げ捨てた。一滴もこぼさずにそれをやり遂げた俺に東方は拍手をしたけれど、シンクを汚した俺を少しくらい叱ってくれてもいいんじゃないかって少し、そういうことが頭をよぎって俺は興奮を無理矢理引き摺り出す。
「東方は?何か飲まないの?」
「いや、お前、そう言いながら帰ってきてるじゃないか」
「牛乳まだ、開いてないの一本あったよ」
「知ってる。そっちも千石が飲めば?」
 俺が牛乳とそれに付随する妄想と闘っているあいだに東方は完全にソファに横になっていてますます偉そうで仕方ない。牛乳、と彼が指し示すその先を見ずに、ソファの横に立つ。そこまですると彼はきちんと俺を見る。それも彼が地味ーズたる所以だ仕方がない。
「飲まない」
「じゃあオレンジジュース」
「いらない」
 ぎっ、といらない音がなる。しずかに。必要のない音だそれは俺だけに興奮をもたらしてすぐに消える最初からなければいいのに。どうせ彼の耳にはそれは無いものといっしょだ。ソファの背もたれに頼りない右腕を預けて(それが活躍するのはテニスのときだけだ)東方の身体を跨ぐように右足を上げる。なるべくなんでもないようなふりをしてそれがあたりまえであるかのように。すると彼はとても上手くタイミングを見計らって、両の膝をきれいに、まるで洗濯物をたたむように折り曲げてしまった。俺の目がそれをとらえなかったわけではない、決して、見えなかったわけではない。それは俺の威厳に関わることなのでそうではないと言い切る。ただ、不意打ちに弱いだけだ。折り曲げられた膝は俺が座るはずだった腹の上を器用に遮って、そうされるともちろん座る場所は確保されないわけで、あっけなく不時着した膝から足先にかけて俺は滑り落ちる。後頭部だけがひっぱられるようにスローモーションでゆっくりと確実に。
「何やってんだ」
 それをくいとめたのは誰でもない東方の左腕で、利き腕でないそちらの手を使われたことに彼の焦りが見えてなんだか、とんでもなく安定しない体勢のまま俺はぎゅうと心臓を潰した。そう、べつに、俺の手を引くのは彼の役目ではないのだけれどそれでも。
「東方の脚は長いねえ」
 支えられたまま、彼はきゅっと眉を寄せた。あ、やめて、そのひょうじょう、やめて。誰と比べた、みたいな顔はやめて。俺より脚長いねって意味かも知れないじゃないどうしてそこまでこんなときにだけ俺に興味を持つの。いつものままでいいからほらだから。
「  」
 東方は何かを言いかけてやめた。ゆっくりと膝をのばして俺を腹の上に座らせてくれた。その口は母音であらわせば「い」の形をしていて、それはもしかしたら南の「み」かもしれないし清純の「き」かも知れなかった。それ以上彼は唇を動かすことをせず、半開きのまま、俺を支えていて手を離しそのまま背中をなでた。そう、べつに、俺の手を引くのは彼の役目ではなくて、そう、俺の手は。





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これね、書いたの11月26日だった。2004年の。
今のところ最初で最後の東千ですね。懐かしいー