冷蔵庫に材料が足りないから買いに行こうと言い出したのは東方だった。その時点では何も気付かなかっただって確認すれば確かに冷蔵庫の中には夕飯に予定していた料理をするだけの野菜やらは無かったし掻き集めても足りなかった。そういうチェックは既に日常で、もはや慣れたものだ。冷蔵庫の扉に手を掛けて、開けて、閉めるまで、数秒。どこに何があるのか把握しているのは俺だけだあいつは飲み物と甘いものを取り出すときぐらいにしかその扉に触れはしないからだ。だから、本当はおかしいんだ、あいつが買い物に行こうと言い出すなんて。

「えっと、何買うんだっけ?」
「…お前まず、今日何作るのか知ってんのか」
 一番近いスーパーには徒歩で五分以内。それでも最初は、引っ越してきたばかりの頃は、そこを使うのを避けていた時期もあった。自意識過剰とでもいうのか、やはり百八十を越えたでかい男が二人、並んで店内をうろつくのはどうかと思っていたのだろう。というのもそれももう随分前のことで、今では片方ずつ買い物に行くとか、そういうのは止めた。まず東方に頼むとリストにないものまで当然のように買ってくるしそれだけならまだしも行く途中でそのリストをなくすのだ、この数分の道のりでどうしてそんなことが成せるというのか。それでも俺が一人で行けば上手くいくという問題でもない、買い物は無事に済ませられるものの家に置いて行った東方が普段はそんなことしないくせに何故か料理の下準備をし出すのだ、思い出したくもない妙に張り切っているから余計に、それは南と同レベル。本人に言えば不満が漏れそうだか下手すればそれよりひどい。それを考えればまあ、結局開き直って二人で来た方がいろいろと安全だということだ。
「え、教えてもらってないんだから知らないよ」
「材料足りないっつったのはてめぇだろ…」
「うん」
「もういい、カート押すからカゴ持ってこい」
「はーい」
 長身を何に浮かれているのか縦に揺らして走って行く。いつも思うが真っ赤なカゴはあいつによく似合う。重なったカートを引き抜いてがらがらと押しながら東方が追い付いてくるのを待つ。右後ろからカゴと手がいっしょにぬっとのびてきて、すとんとカートに乗った。そのまま、横に並んで口をはさむわけでもなくきょろきょろとしているのが常なのだが、今日は店頭の特売品を眺めているあいだも、その中のひとつをカゴに入れているあいだも、東方は視線の中に姿を現さない。
「東方…?」
 小さく呟いて首を少し後ろに回しても、そこに彼の姿は無い。もともと気配を感じさせるような強い主張は無いにしろあの図体、足音がしなかったということは足音をさせなかったということだ。溜め息を吐いてカートを押す手に力を込める。どうせ今日必要なものは俺の頭の中にしかない。食後に、とグレープフルーツをカゴに突っ込んで(そういえば前に切って出してやったときは苦い酸っぱいとうるさかった)と思い出し蜂蜜は棚にあったかどうかを考えながら歩き出した。

 そんなに時間は経っていなかったはずだ、まだ俺は野菜売り場の前に立っている。ぱたぱたと足音が聞こえて、それはあいつが浮かれているときの足音で、わかっているから振り向かなかった。嫌な予感がしたと言ってもいい、そうだどうして気付かなかった、東方が冷蔵庫を確認して買い物に行こうと言い出したこと事態おかしいことだったというのに。
「あくつー」
「…あ?」
「ね、ね、これ買っていい?」
「………」
 カートのちょうど横、俺と並ぶようにぴたっと足を止めた東方の手には溢れる程の菓子類。ぱっと見ただけでもそれの殆どはチョコレートがかかっているようなものでどうしてそれを一気に手に取れるのか、うんざりする。
「だめだ」
「え、なんで?」
「…なんでお前が驚いてんだよ」
「だってこれ今日から味がちょっと変わってるんだって!」
「は?」
「だからこれ買っていい?」
「…じゃあそれだけでいいじゃねえか」
「えー」
 掴んでいたネギをカゴに突っ込んで足を進める。残された東方は、えーえー、と言いながらもついてくる。両手にいっぱい菓子を抱えたままでだ。
「いいから返してこい!」
「えー美味しいよ?」
「知るか!買わねえぞ!」
「一個だけもだめ?」
「…ほら!もういいだろ!返してこい!」
 乱暴に手の中からひとつだけ抜き取って、自分が食べられそうなものにしようと思ったが東方の右手があまりにも大切そうに一つ箱を抱えていたのでそちらにして、真っ赤なカゴに放り投げる。
「亜久津」
「あ?」
「ありがとう」
「うっせ」
「あとね」
「何だよ」
「スーパーではあんまり大きい声ださない方がいいよ?」
「てっめ…」
 名残惜しそうにするのかと思いきや菓子売り場に戻っていくその背中は意外にもうきうきとしている。俺はカゴに視線を戻し、ひとつだけ異色な菓子の箱を眺め、結局これだけ食えればよかったのか、とかそういうことを考えて。なんとなく、今日の夕飯をハンバーグにしようと思い至って、ネギを戻そうとカートを後ろに引いた。