あの千石が苦手とするもののひとつに、大きな音、というのがある。周りで何が起ころうと、飄々としているか、場に合わせて妥当なリアクションを取る彼が、大きな音のするときだけは見たことも無い様子で取り乱す。よく見える目のおかげか物が落ちる寸前を人より速く察知する千石は、周囲がぼんやりとしているあいだに何かが爆発したような瞬発力で逃げ出すかそれが間に合わないと悟ったときには耳を塞いで身体を極限まで丸くした。生命の危機を感じさせる行動だ、と南はいつも思う。テニスボールを打つ音は平気らしい、それともテニスはまた、彼の中では別物なのだろうか。日常生活で彼が怯える程の音がすることはあまりない、だから、他に気を回しているあいだに忘れてしまうときが多かった。

 全国大会が近い時期、楽しくテニス、をモットーにしつつも部活中はどうしても空気が張り詰めたようになっていて、部長の南もそれを全て背負ったかのように毎日全身をぴりぴりとさせていた。そうする必要は無い、と思いつつ、そうしていなければいけない、と言い聞かせる日々が続く中。自分でも気付かないところで苛々としていた南は、部活中に声を張り上げることが頻繁にあった。少しだけ、周りが見えにくくなっていた時期だ。すう、と空気を吸い込んだとき、ちょうど目の前のコートに入っていた千石が、びくっと肩を揺らしたのが目に入る。
「あ…」
 はっとして、思わず口を抑える。何にたいして叫ぼうとしていたのかさえ、あっという間に忘れてしまった。視線をコートに戻すと、千石は何も無かったかのように室町と打ち合いをしている。見間違いだったとは思えない、今、思い出したからだ、彼の苦手なもの。実際に大きな声を出したわけではないけれど、ここ数日、もしかしたら彼はいつも今のようなリアクションをしていたのだとしたら。
「千石」
「はあい」
「ごめん、今ちょっといいか」
「いーよー」
 練習中であったけれど、何だかどうしようもなくなって呼び掛けてしまう。千石は向こう側にいる室町に見えるよう手を上げ、ちょっとごめん、という意を示した。ととっと軽く走って寄ってきた千石は汗だくで、南の言葉を静かに待つ。
「えっと、」
「うん?」
「声」
「こえ」
「その、大きい声、俺が叫ぶ声、こわいか?」
「あー…」
 ぐしゃぐしゃ、と汗に濡れて色の濃くなった橙の髪を掻き混ぜた千石は、居心地の悪そうな表情。左手に持ったラケットを手の中でくるりと回して南を見た。
「こわいよ」
「…ごめん」
「最近のが、ってことね、いつもの大きい声は大丈夫」
「え」
「あのねえ、南の声が大きいのなんて今に始まったことじゃないでしょ」
 呆れた、と言わんばかりに溜め息を吐く。俺がこわいのは人の気持ちを汲んでくれない大きい音だよ。と言った後、千石はまたコートに戻って行った。南が大きな声で指示を飛ばすのは、部長になってからずっとそうだ。最初から、千石はいつも肩を揺らして反応していたかと言えば、そうではない、見ていたから、それはわかる。千石が怯える音、それはふいにロッカーの上から落ちてくる備品や、勢いに任せて開けられる教室の扉、そういう類いのものだったはずだ。
「みなみ」
 立ち尽くしていた南を、少し離れたところから千石が呼ぶ。
「みんなの分まで横取っちゃって一人で背負うのはずるいよ」
「…うん」
「まあ俺の怯えた姿がお好きなら、そのままでいいですけど」
「ばっ…!」
「さー室町くん待たせてメンゴー!張り切っていきましょー!」
「せんごく!」
 からからと笑う千石が、きれいなフォームでボールを打つ。その音は彼に心地よく響くのか、とても楽しそうだ。見渡せば、怒鳴って注意をする箇所などどこにもないテニスコート。みんなそれぞれ少しずつ真剣に、ちゃんと自分の分は背負っている。南は大きく息を吸って飲み込んで、一年生のところにいる東方を大きな声で呼んだ。千石がこちらを見て、ふっと笑ったのが嬉しい。

 まるで蜘蛛のように。ぱんっ、と目の前で手を叩いたときに、逃げ出そうとする千石が、ほんとはすごく好きだってことは、どちらの為にもならないので、黙っておこうと心に決めた。






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拍手お礼用のもの。これも不憫もえの一環かと思われます。
2005XXXX