完全に日が沈んでから電車を下り駅を出て、家に帰る道を歩いていると、いつも幼い頃のことを思い出す。それは最初の記憶で、最後の記憶だ。帰り着くのは、自分の家でなく南の家だが、それはたいした問題じゃない。亜久津は改札を抜けてすぐに煙草に火をつけ、濃紺の夜空によく栄える白い煙を高く立ち上らせた。 「亜久津!」 街頭の殆ど無い道を歩いていると、大きな声で名前を呼ばれる。もうすぐ日付の変わるこんな時間に、そんな大声は非常識だと思ったがわざわざ言ってやることでもない、それを自分が咎めるのもおかしな話だ、そう思って亜久津は特に反応を示すこともなく一定の速度で歩き続けた。声は前からした、暗くて姿はぼんやりとしか把握出来ないがあのシルエットは南だ、歩いていればそのうち着く、そう思った。静まり返った住宅街、時折小さな子どもの声が聞こえる。楽しそうな笑い声、それに聞き入るようについ、煙草をくわえたまま立ち止まってしまった。 「…亜久津?どうした、さっきも呼んだのに反応ないし」 「いや、それは聞こえてた」 気付けば目の前に南の顔、覗き込むようにされてふいと目を逸らす。何事も無かったように歩き出せば後ろをついてくる南、子どもの声はやんでいた。 「何だお前、何か用事があったんじゃねえのか」 「え、違うよ、亜久津を迎えに来たんだ」 「…はあ?」 部屋着に薄いジャケットをはおっただけのようなかっこうで、コンビニにでも行くのかと何となく思っていた。けれど彼は当たり前のような顔で自分を迎えに来たのだと言う。帰ってくる時間など、ましてや出掛けることさえも告げていなかったのに、わざわざ迎えに来るとはどういうことだ。当然、普段はそんなことをするやつではないし、何かあるなとは思ったが考えていくのも面倒だった。ふーっと夜空に煙を吐けば、たった今気付いたかのように後ろから歩き煙草はよくないぞと声がかかる。笑いを堪える為に無視をする振りをした。 「そうだ、これ」 「あ?」 「やるよ、これ買いに外に出たんだ」 「やっぱ用事があったんじゃねえか…って、お前、これ」 ととっ、と少し小走りで隣に並んだ南に手渡されたのは、未開封の煙草。亜久津が好んで吸う銘柄では無く、しかしそれにはそれなりの曰くが付いていた。実家で常に、あの場所に置いてあったいつまでも開けられることのない箱。ぴったりとビニールでコーティングされたそれは、亜久津が初めて手に取った煙草でもあった。いつか酒の肴にこの話をしたことがある、思い出して亜久津は、思わず苦笑する。いつもは見せない表情に驚いたのか南も、同じような顔をして、その後すぐ誤魔化すように笑った。 「まだぎりぎり、間に合うだろ」 「どうせなら行く前に渡せ」 「だって亜久津、一人で行きたかったんだろ」 「………」 「誰にも気付かれないように、一人で、会いたかったんだろ」 手の中で、わずかな街頭の光りを反射するそれは。ポケットに詰め込んでしまうことも出来なくて、亜久津の手の中でかさかさと音を立てた。 「優紀さん、まだ教えてくれないんだね」 「あいつの中ではまだ生きてんだろうよ」 「そうだね」 似合わないとはわかっていても、感傷的になってしまうのは仕方が無い、今日はそういう日だ。一年に一度の、自分のそれよりも鮮明に記憶に残る日だ。 「お誕生日おめでとうございます!」 突然南が、中学時代コートでそうしていたような声で、力の限り叫んだ。さすがに驚いて煙草を取り落とすと彼は、ちゃんと拾えよ、とすっきりとした顔で笑う。 「届いたかな」 「届いたんじゃねえの」 今日は、父の生まれた日であると幼い頃から聞かされていた。墓だってちゃんとあるのに、いつまで経っても息子に命日を教えようとしない母の所為で、いつからか亜久津は毎年この日に墓参りに行くようになっていた。今でも実家に供えてある彼が吸っていたという煙草。それを南は、覚えていたのだ。近所迷惑も甚だしい南を呆れた顔で見ながら、手の中で弄んでいた煙草の封を開ける。 「俺にも一本」 「てめえは吸わなくていい」 俺から親父さんへの誕生日プレゼントだぞ、そう言いながらも南は嬉しそうだ。普段よりタールの重いその煙草は、とても濃い煙を肺まで流し込む。思わず咽せるのは、その所為だけでは無いはずだ。幼い頃、家出をしたものの寂しくなって帰り着いた駅で今の自分のように煙草をふかしながら迎えに来てくれた父、それが彼に関しての、最初で最後の記憶。 「おかえり、亜久津」 「ああ」 濃紺の夜空は、白い白い煙をすんなりと受け入れ、それでもまだ澄んでいる。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 亜南の大人パラレル第二弾 20051206 |