ぱつん、と。それは本当に突然だった。そんな流れになるような話をしていた覚えは無いし、ほんとうに穏やかに、彼は自室で雑誌を読んでいたはずで。俺はといえばその横で、遠征の準備を淡々としていただけだ。会話が無かったのが原因かとも思うがそんなことは常であるので今更そんなことで罵声の類いを浴びせられるのもおかしな話だろう。今更だと思っているのがこちら側だけであるという可能性は多いにあるが今はその辺りの詳細を詰められる状況でもないらしい。とにかく今俺は、物凄い剣幕でどうやら怒っているらしい南健太郎に首根っこを掴まれ出発直前であった為スーツを着込んでいたばかりに襟が喉に食い込み窒息寸前だ。大きめの荷物を肩に、ゆっくりと立ち上がり、じゃあ行ってくるね、と言っただけ。俺が直前にしたことと言えばそれぐらいだ南はそれまでじっと雑誌を見つめていた。酷いスピードでこちらに腕をのばしてきた彼の第一声は、
「俺とテニスどっちが大切なんだよ!」
 そんな、ばかみたいなことを、至極真剣な顔で言われると、人は一瞬思考が停止するものなんだなあ、と止まっている脳みそとは別のところで考えた。停止しているあいだに冷静な対処法まで浮かべば成功だったのかも知れないけど、残念ながらまだ二十年かそこらしか使われていない橙色の中身はそこまで発達しておらず。
「テニスに決まってんだろう!」
 こちらもぱつんときた、というわけだ。後ろから襟を掴まれているので、南の表情を知ることは出来ないが空気がすっと冷えたのはわかった。肩からどすんと荷物が落ちる。ジャージやユニフォームたちは存外大きな音を立て、黒々とした鞄は鉛か何かのように思われた。失敗したな、とは思った。ぎゅう、と、首が絞まっていく。
「大きい声出した、ごめん」
「それは、俺が、そうしたからだ、ごめん」
 言いながら、南の手が離れていった。首筋に少しだけ触れた指先はチリリと刺さる針。そうされると急に頭の芯が凍るように痛くなって、開放されたのと同時に俺は南を抱き締めていた。彼の身体がきちんと暖かいと再確認する頃気付いたのは、南が突然叫んだその内容よりも、自分は叫ばれたという事実に驚いたのだということ。背中に回されない腕をあやすようにゆったりと、手の平をあて上下に動かした。そして少し高いところにある南の頭に、自分の頭の重さを預けるようにする。
「遠征、行くのやめよっか」
「………」
「南と、いっしょにいるよ」
「………」
 嘘は言っていない、それはほんとうだ。けれどああ叫んでしまった後には何を言っても嘘のように聞こえるかも知れない。黙った南の顔を見るのを少しだけ躊躇った。遠征に行かない、という選択は、この先を考えれば有り得ないものだ。南とテニスなんて比べられない、腹の底から大声で笑いたくなるような半ば禁句のような昼ドラのような少女漫画のような、そんなばかげたことを真剣に考えた。動かない南がこわくなって、抱き締める力を緩めた途端、どんっと逆に身体を押され。
「え…?」
 目が合った南が、ぎりっと、奥歯を噛み締めたのがわかった。
「ばかか!遠征行かないとか言うな!ばか!」
「ばっ…」
「俺は、テニスしてるお前が好きなんだ!」
「はああああ?」
 床に転がっていた鞄を乱暴に持ち上げて、俺の胸に押し付け、部屋の時計で時間を確認しながら、南がまた大きな声で叫ぶ。もう何を言っているのか、何が言いたいのかわからない、けれど、彼の中で何かひとつ結論が出たんだろうなあということには気が付いた。それぐらいのことがすぐにわかるくらいにはそばにいる。
「遅刻すんぞ!」
「あー、うん、そうだねえ」
「テニスしてる千石がいい」
「あー、それはよかった、俺もだよー」
「急げって!」
「あー、はいはい」
 俺と数日会えないことが急に寂しくなったのかなあ、そんなことを考えながらぐいぐいと玄関へ向かって背中を押す南のことを愛しく思った。彼が、彼の中で、彼にしかわからない結論を出す癖には、いい加減慣れたつもりだったんだけど。くすくすと笑っていたら、走れ!と怒られた。まだ家の中だよ南、テニスしてない俺のことだってちゃんと大切に愛して。





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よくわからないけどなんか、とりあえずおつきあいしてるみたい
20051123