それが、ここじゃないどこかの国で、ここじゃないどこかの人が、おはようってこんにちはってじゃあまたねって、することだって知ってる。そんで、南が、そういう国のそういう人と何年間かいっしょだったってことも知ってる、知ってた、忘れてた。だって小さい頃の話だっていつか、半年くらい前に聞いたのが最初で最後で、別に過去を語りたがらないとかそういうんじゃないけどそれは彼にとって当たり前のことで(そりゃそうだ南は南以外の生き方を体験してないんだから)そのとき俺はまあ多少びっくりはしたもののそうだったのかと、南のことまたちょっと知れて嬉しいな、くらいにしか。記憶としてはそのとき見た、ちっこい南がでっかい花のネックレスみたいなのにうずもれてお母さんにちゅうされてる写真だけで。 だから、こういうのは、ちょっと、 「う、ええっ?」 変な声が出たって別に嫌とかそういうのでは決して無いんだけど、それを伝える手段すら失っている状態だってことまあそれを伝える意味も無いんだろうけど。伝えなければどこへ持って行けばいいというの。 朝練に遅れて行って、家を出たときからそれはわかってて、それなりに急いで学校まで、校門をくぐってからは走る素振りすら見せたところに、南。部室に入る直前、扉の前に立っているその姿を見付け足を更に速めるべきかどうかを瞬間迷う。だってこれはどう考えてもお叱りだろう。だってこの時間に彼が制服のままなんておかしいだろう。でも、ここで時速を考え直したところで出てくる結果がいっしょなら、怒った顔でも何秒か速く彼と接触を持てる方がいい。 くんっ、と腹に力を入れて交互に出す足をのばす。名前を呼ぶか否か、考えているあいだに手は届く、それなら、 「おはよ、みなっ…」 夏になって袖の短くなった腕のとこ、とん、て指先が触れたその。くるんと振り向いた南が怒ってなくてああよかったとそこまでしか。 だから気付くべきだったんだよね、俺を叱るはずだったらばたばたしたあの走る音で振り返って眉を寄せるでしょ、俺の足音はさ、わざとわかるようにしてるんだからさすがにもう覚えたでしょだから、そうしなかったってことはだよ、 俺が来るのを知っていて、それでもっと言っちゃうなら、俺が来るのを待っていたってことだよね。 み、って最後の方の、み、が口から出て行く前にその端を縫ったのは同じ、南の同じとこ。目を閉じる隙すらなくて、腕を掴もうとして南の指が滑ったのがわかった。それでも別に焦ってる様子とかはなくて(俺が焦ることすら許されなかったので本当のとこは知らないけど)顔はゆったり近付いてきたし制服を掴み損ねた手は腕ごと首にまわってきた。なんか、自然で、疑問も湧かなかったんだ。 ちゅ、って音がするまでは。 「う、ええっ?」 「おはよう千石」 「え、え、はあああ?!」 「………」 いやそんな普通におはようって言われても、そんな顔近いままでそんな笑顔見せられても、せめてまわした腕を、これをなんとかしてくれませんか南さん。でなければ朝のご挨拶にもお答え出来ないんですけどっ。なんかわかんないけどちゅうされた、朝っぱらから、南から。これを俺は瞬時にもがき騒いではいけないものだと判断した、までは良かったけどそこからどうしていいのかもわからない。取り敢えずちゅうされたとこは触っとこうと思って左端だったから左手を。じっとしてたら南もじっとしてる。そういえばおはよう、から黙りっぱなしだ。 「え、…みなみ?」 「………」 「う、え、おはよう?」 「………」 「なに?なに?どしたのみなみ」 ぐっと南の腕に力が入って半ば首が絞められる、真っ直ぐな真っ黒の目は、何かおかしなものでも見るようなけれども至極真剣な面持ちで俺を見てる。なんだなんなんださっきまですっげ笑顔だったくせに!どきっとした心臓が、今度は怒られた子どもみたいなどきどきに変わっていく。顔が近いままなのも悪い。……え、まさか俺、怒られてんの…?部室前で朝練始まってんのに制服で駆け寄ったのは確かに俺だけど引き寄せられてちゅうされたのに、怒られるってなに? 「南!って、まだ待ってたのか…」 「うわっ、え、ひ、東方…!」 睨まれっぱなしで硬直状態、それを解いたのはランニング途中で抜けてきた様子の東方。するりと俺から離れて行った南が、東方に近付いて、俺にしたみたいに、ちゅって、した。そしたら東方も、南のほっぺに顔をあてて、にこにこした。 「はあああああ?!なにそれ!なにそれ!」 「あー、挨拶だよ」 「あいさつぅッ?!」 「思い出したんだろ、昔の」 「え?え?何それ、あの写真のはなし?」 「そうそう、あの頃の話」 ちゅうを返された南は機嫌良さそうに走る部員に向かい、激励をするような、大きな声を上げている。制服だから威厳も何もあったもんじゃない。でも今はそれより大切なことがあって、でも俺はまだどうしていいのかわからない。 「えーと、まあみなみはいいや、ちょっとあのままでいい?」 「うん、まあ」 「俺さ、きっとさ、」 「うん」 「返さないといけなかった、ってこと?」 「まあそういうことだろ」 「………」 「千石?」 「…そんなのっ、できるわけないだろーーーーー!!!」 情けないことこの上ない内容を南にも負けない大声で叫びながら、今にも腹を抱えて笑い出しそうな東方を押し退けて、俺はやっとの思いで南の首根っこを掴む。ぎっと振り向いた南は怒ってる南だ。部活中だ、って怒る南。 「制服、をッ」 「はあ?」 「ユニフォームに!」 「は、あ、ああ」 よたよたっと一瞬足をもたつかせた南を構わず引いて、いけないこのままじゃ俺は負けだ、とくだらない闘争心を燃やす。出来るわけない、こんな、朝っぱら部活に励もうと駆け込んできたこの身体で、そりゃ南に関して火を付けるのは得意だけど、不意打ちには弱いんだ俺は知ってるくせに、忘れたのか、…覚えてるわけないよねえ、あああああもうっあいさつだあいさつだあいさつなんだろ?挨拶だったら構わないんだろ! 「みなみ!」 「あ?」 うおりゃっ、と部室の扉を開けるのと同時に南を今出る力全部でその中に引っ張り込んで、にこにこしてる東方なんか無視して扉を閉めて(さすがに俺は南じゃないから人前ではちょっとね)体勢を整え直した南の後頭部に腕を回して、ちゅっ、て。同じように、口の左端に。そんで、 「おはようっ!みなみ!」 って言ってやって満足したら、また南がちゅってしてきて、ああそうか挨拶なんだから返されて当然だ。冷静に考えようとしたけど、だめだ二回も南にちゅうされた、朝から!申し訳ないけど南がこれを望んでないのは百も承知なんだけど、俺の体温は一度も二度も勝手に上がっていった。 「…さっきも聞いたけど」 「あははははっ、そうだよねえ!」 「おはよう、千石」 「おはよ!」 え、これさ、上手く持ってけばさ、毎日南とちゅう出来るって、こと?って思ったけどさー、おはようっていう南の笑顔には、ちょっと、勝てないなあ。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 異文化コミュニケーションの千と南。 20050708 |