革靴の磨き方なんて、知らないわけがないのに、道具がない、と石井がやけに大荷物で(つまりは靴以外の荷物も持って)家にやってきたのは、昨日の夜のことだった。

「星野君」
「なに。言いたいことは大体わかるけど聞くよ」
「七五三ごたなっとるばい、そいで問題なか?」
「…ないよ、ご心配ありがとう」
「いえいえ」
 問題がない、わけがない。石井は当然わかって言っている。星野はひとつ溜め息を吐いて、もう一度ネクタイを締め直した。
 正装、とドレスコードを掲げられてしまうと、彼らのワードローブに選択肢はない。学生時代、制服で免れていたものがスーツに変わるだけで、結局どちらも一着きりのそれは変化といえば使用頻度ぐらいだ。学校の制服は毎日着るものだから、時間が過ぎるにつれそれ相応の使用感が出る。正装で、と言われているのにこれはないんじゃないか、と思う日もあったというのに、今となっては寧ろ、という気持ちだ。少しでも着古していればまだ、こんな印象にはならないはずなのに。
「ネクタイば結ぶんも、俺の方が上手っちゃね〜」
「ちょっと、メグル遊ばないでよ」
「なんか?」
「…ネクタイ、これとそれしかないんだから」
 部屋着にしているジャージの上から器用にネクタイを締める石井の手元は確かに無駄がなく素早いが、今はそんなことを競っている場ではない。明らかに出掛ける準備をしている自分にたいして、全く出ていく様子を見せない彼についてはもう諦めた。どうせ合鍵を持っているのだったら、後は施錠を怠らず出ていってくれるのを願うまでだ。
「まあまあ星野君、そがん顔すんなさ」
 緩めるだけで、ネクタイを外そうとはしない石井を横目に、星野は壁に掛かっているハンガーから外套を引き抜いた。めでたい親戚の結婚式の朝に、ただでさえ似合わないスーツを着込んで少し浮かない気分であるのに、さらにこんな顔をさせているのはどこの誰だ。それを口にしている暇もないことに気付いたのは、石井がジャージにネクタイという珍妙な格好も気にせず、おもむろにノートパソコンのスリープを解除し全国の天気予報をチェックしだしたからだ。彼が朝、それをする時間は決まっている。自分が乗る予定の電車が発車する時刻、あと十五分だ。
「あー、メグル」
「なん?」
「鍵、ちゃんとして出てってね」
「出ていかんって選択肢もあるっちゃね」
「ないよ。もう、休みは有効活用してくれって」
「あーい」
 気のない返事でひらひらと手を振る石井は視線を星野へ向けることはなく、勝手にお客さん用の折りたたみ式テーブルをがたがたと引っ張り出してきて居座る体勢を整えている。外套はしっかり前をとめた、鞄の中に入れるべきものもチェック済み、さあこうなったら、幼い頃大好きだった従姉妹のお姉ちゃんの花嫁姿に心を寄せる他ないだろう。じゃあね、と軽く声を掛けると、ふっ、とこちらを向く気配。
「可愛げなかねー、いってきます言うてもよかろーもん」
「なんで、メグルに、」
「ここ、星野君アンタの家じゃなかと?」
「…いってきます」
「はあい、いってらっしゃーい」
 聞き慣れない標準語のイントネーションがおかしい。何を言わされているんだか、思いながらも、外出の際に家の中へ声を掛けて出るのは一人暮らしをはじめてから多くあることではないから新鮮だし、悪くないものだ。石井がまた、天気予報に視線を戻してしまったので、星野はその横顔を見ながら扉を閉めた。靴は昨日のうちに磨いてあるから、朝日を反射してきれいな茶色を輝かせる。清々しく、美しい結婚式日和だ。少しだけ心配な点があるとすれば、薄着かも知れない花嫁と、部屋から出てこない石井のことぐらいで。引き出物が食べ物だったらみんなを呼ぼう、左足の爪先で地面をとん、と軽く叩いて、星野は駅へと駆け出した。

「星野君はなーんもわかっとらんばい」
 扉がばたん、と閉まった直後、石井は目の前のノートパソコンもぱたんと閉めた。そしてそのまま後ろにひっくり返る。障害物が何もないことは、先程まで同じ場所に寝転んでいたから確認済みだ。全国の天気予報など携帯電話からもチェックしているから何も液晶を睨む必要はない、習慣のようなものだから続けているだけで、本当に重要なのはそこではない。
 今日は、石井も、星野も、休みの日だったのだ。結婚式があるとかないとかは重要な部分ではなくて、出来れば、とそれを望む自分が嫌で隠したかった。だからネクタイで遊んで、流し見れば充分な天気予報を何分も眺めて、なかったことにした。取り敢えず、なかったことになったので、石井は寝る体勢を整える。
「めんどくさかー…」
 緩んでいたネクタイをひゅるっと部屋のすみに放り投げ、ずるずると布団まで這いずった。身体を丸めて目を閉じたとき、ポケットに入れていた携帯電話がメールの着信を知らせて細かく震える。なんてことはない、牛乳が切れているから外に出る機会があるなら買っておいてくれ、という内容のものだった。どうやら石井が部屋から出て行かないことにはもう諦めがついたらしい。このメールを打つ余裕があるくらいには、電車の時間にも余裕があったということだろうか。時間的にまだ駅には着いていないはずだ。それならば、[星野君、その靴、俺のではなかとね?]
「さあて、元ひよこ、脚の見せ所っちゃね〜」
 けたけたと笑いながら、携帯電話をポケットにしまった石井はぐるりと毛布にくるまった。そのまま気付かなければ、もしくは履いて行っても何ら問題はないはずだけれども、彼は必ず。星野が息を切らせてその扉を開けるまで、後数分。





すり替えた星野君の靴はベランダで冷えてるよ

20061030