よく晴れた、日曜日だった。俺は、久しぶりに、部活に顔を出した。 教室の、入口からは、何だかとても、躊躇われたので。 よく加賀がそうしていたように、そういえば、煙草、まだ吸ってるのかな、とか。 そういえば昔、一度、ここで塔矢とやりあったな、とか。そんなことを、思いながら。 理科室の窓を、かなり控えめにコツコツと、二回、叩いてみた。
「あ!ヒカル!」
 窓が閉まっていたから、はっきりとは聞こえなかったけど、あかりが、俺を見付ける。
「何だよ、筒井さん、いねえじゃん」
 昨日、メールが来たのだ、筒井さんが遊びに来るからヒカルもおいでよ、と。 葉瀬中囲碁部が最近、休日でも学校で、集まっていることは知っていた。 自ら赴かなくとも、彼らの情報は逐一、諜報部員からの報告のように、伝わって来る。 あかりのメールは長くて、内容があちこちに飛んでいるから、正直、返事がしずらい。 でも昨日は、筒井さんのことだけしか書いてなくて、何度かやり取りをした。 そんなことで今、目の前のあかりはとても上機嫌で。それは素直に、可愛いと思う。 それなのに、それなのにだ。意中の筒井氏が不在とは、どういうことだ。
「あれ、ヒカル、それなあに?」
 俺の発言を無視して、まあ、あかりはたまにこれをやるのだが、逆に問い掛けて来た。 あかり越しの理科室には、金子さんとか、二代目部長の夏目とか、津田さんとかもいて。 一番奥に、三代目部長の小池と、向かい合って打っている、三谷が、視界に飛び込んで。
「驚いたな」
 三谷は一度こちらを見て、少し驚いたような表情を見せながらも、すぐに碁盤に目を戻した。 思わず洩れた、俺の言葉に、あかりは楽しそうに、くすくすと、笑う。
「いいの、今日は特別にみんなが集まる日なの、それより、これ」
 あれ、もしかしたら俺は、まんまとあかりに、騙されてしまったのだろうか。 言いながら、あかりは窓枠に手を掛けて、俺の方に、身を乗り出すように、ように。 ゆっくりと目で追っていると、有り得ない角度にまで倒れて、結局、抱きとめる。 ちょうど、俺の胸辺りに鼻先からぶつかって、その状態のまま、じたばたしだした。
「待てって、そっち、戻してやるから」
 肩に手を置いて、それじゃ支えられないようなので、脇腹に手を置くと、じたばたは止まった。 津田さんが、奥で、何とも言えないような、どきどきした顔をしていたので、少し困る。
「これな、昨日じいちゃんちの蔵で、見付けたんだ」
 あかりを元に戻して、さっきから気にしているようだったものの、説明を始めた。 俺の首からさがっているのは、とても古い、カメラ。写真機、の方が、しっくりくるような。 フィルムは一回撮る度に、自分で巻かなければならないし、フラッシュなんか無い。 ちょっとしかズーム出来ないし、全部、何もかもが手動だった。とても、重い。
「へえ、こんなの、初めて見た、何でもあるね、あの蔵」
 そっと手を延ばして、人差し指のさきっちょだけで、つん、と触れた。冷たい金属は、少し揺れる。 撮れるの?なんて聞くので、当たり前だろ、とムキになって、あかりにレンズを向けた。 俺は今まで、こんな大きなカメラ、構えたことなんて無いから、まあ、不恰好だったけど。 ピントを合わせている間、髪の毛を何度も梳くあかりが、やっぱり素直に、可愛くて。
「俺らも、撮れ」
 ぴったりと、やっと、ピントが合った時、見切れていた左側から突然、三谷が入って来た。 正確にはその後に、引っ張られて小池も入って来たので、記念すべき一枚目は記念写真みたいで。 嬉しそうに笑う、あかりの後ろで、金子さんにどつかれている三谷が、何だか面白かった。
「ねえ、ちゃんと撮れてるかな」
「まだ分かんねえよ、出来たら、見せるから」
「楽しみ、約束ね」
 また乗り出して来るあかりを、戻すように俺は何歩か、理科室に近付いた。 そしてそこで、漸く気が付いたんだけど、場の雰囲気はもう、一段落しているようで。 碁を打っている小池と三谷以外は、他愛も無い談笑で、金子さんに至っては、帰る準備さえ。
「さっきまでね、いたの、筒井さん、でも加賀さんが来てね、連れてっちゃった」
 なるほど、あかりは、初代囲碁部を集めたかったのだ、この、卒業前に。おのれ、加賀め。 まあ実際、久しぶりに碁を打っている三谷とか、いろいろ、何だか、よかった。 それに俺は多分、昨日このカメラを見付けた時に、ここに来ることを、決定的に決めていた。 筒井さんのことが、あっても、なくても、そりゃまあ、久しぶりに会いたかったけど。
「ヒカル、入らないの?」
 いつまでも、こうして窓際にいる俺に、あかりは少し寂しそうに、言った。
「うん、これから、行くとこ、あるんだ」
 そう言うと、更に、意図的では無いことは分かっているけど、あからさまに、寂しい表情。 この顔は、もう見慣れているはずなのに、久しぶりだからか、とても、どうしようもなくなった。
「あー、明日さ、またじいちゃんち行くんだ、あかりも、来るか?」
 俺の目を、まっすぐ覗き込むあかりが、とても、とても眩しいほど、明るくなって。 戸惑った感じで、いいの?なんて、いいよ、と言うと、うん、と笑った。
「後でメール、するから」
 そうだな、やっぱり卒業する前に、筒井さんとか、加賀とか、またここで、集まりたいな。 そう思いながら、理科室の中に向けて、じゃあな、と言うと、みんなそれぞれ声を上げた。 もう一度、今度はあかりだけを、近距離で撮って、少し離れて、理科室を撮った。 手を少しだけ上げて、揺らすと、みんなも、それぞれ、俺を見送ってくれる。
「あ、あの! 進藤先輩っ!」
 背中を向けた、その瞬間に、かなり慌てた小池の声がぶつかってきたので、振り返る。 あかりの横から、落ちるぐらいに、身体を乗り出して、叫んでいた。
「今度、また、ここ! えっと、来てください!」
 本当はきっと、打ってください、と言いたかったのだと、思った。 プロってのは、結構、厄介なものだな、とか、何となく思った。
「遊びに来るよ」
 少し声を張り上げて言うと、小池は嬉しそうに、あかりと笑い合って。 あの中から出たのは、自らの意思なんだと、言い聞かせないと少し、少しだけ切なくなった。 俺は、いくつかの約束をしっかり、忘れないようにして、ゆっくりと、自転車に跨った。

『ねえ、ヒカル、それは何ですか?』
 ふいに、さっきのあかりの科白とダブるように、佐為の声が出てきた。 自転車は、いつもより速いスピードで、駅に向かっている。風の中で、声ははっきりと、響いて。
『カメラだよ、写真が撮れるんだ』
『かめら? しゃしん、って?』
 いつだったか、和谷たちと遊ぶ時に、駅の売店で、たまたま買った、インスタントカメラ。 集合時間に、あいつら遅れて、伊角さんまで遅れて、手持ちぶさただったから、何となく。
『カメラはこれ、写真は、あ、あれ』
 改札の横に貼ってあった、場所はどこだったか忘れたけど、観光名所を写した、ポスター。 紅葉がとても赤くて、銀杏がとても黄色で、佐為がじっと見ていたことを、よく、覚えている。
『こうやって、時間を切り取るんだ』
 だから俺は今から、きっと楽しいから、それを残すんだ、と説明した。 笑ってる和谷とか、伊角さんを、ずっと後でも、それを見て、楽しいなあって、思い出せるんだ、と。
『凄いですね』
『だろ』
 別に自分が発明したわけでも、何でもないのに、佐為があまりに感心するものだから。 それから何度か、一緒に撮りましょう、と佐為は言ったが、俺は怖くて、本当に怖くて。
『どうせ、おまえ、写らねえよ』
 どうしていつも、その言葉で、片付けてしまったのか。時間を切り取るなんて、酷い表現だ。 ただ、横に写らない佐為を、横にいないことを、こんな紙切れで、証明されたくは、なかったんだ。
「一回くらい、試してみりゃ、よかったかなあ」
 もう、駅が近く、人通りも多くなったので、俺は、涙を、押し戻す。 ペダルをこぐと、反動で、カメラが、何度も、何度も、何度も、胸を打って、とても、痛かった。

「何してるんだ、進藤、今日は手合い、ないだろう」
 やって来たのは、当然、通い慣れた棋院だった。感慨深げに、ビルを見上げていると。
「え、あ、ああ、塔矢」
 挙動不審な俺を見て、声を掛けてきたのは、塔矢だった。スーツなんて、着込んじゃって。 プロにもなって、しかも院生だった俺が、改めて棋院を見上げていた図が、可笑しかったのか。 今日も変わらず、整ったおかっぱを揺らし、少し笑った。
「塔矢は、何、時計係りか、何か?」
 俺は久しぶりに、続いている自分の休み(しかも世間の、三連休に合わせて!)が嬉しくて。 結構前から、浮かれ気味だったから、塔矢の予定までは、把握していなかった。 塔矢は、そうだよ、と言ってまた、笑う。機嫌が、良いようだ。 その笑顔を見ながら、この調子で近くにいられたら、碁に集中出来ないんじゃないの、とか思う。 おまえが担当につく棋士、気の毒だな、と言うと、芦原さんだから大丈夫だよ、と笑った。 多分、俺が言いたいことの半分も、伝わってないと思ったが、それ以上何か言うのは、やめた。 そして、そうか、きっと公式の試合じゃないんだろうな、とか、勝手に推測した。
「それ、いいカメラだね」
 棋院の前で、若手プロ棋士二人で、立ち話をしながら、何となく、塔矢を撮ったりして、遊ぶ。 そのうち、芦原さんが現れて、俺たちを半ば無理矢理、棋院の前に並ばせて、記念撮影された。
「いいね、とてもいい写真だ」
 満足気な彼の言葉に、俺も塔矢も、俯いて、笑った。今度はきっと、同じことを思っていた。 三人で中に入って、少し話をして、二人を見送った後、棋院内を少し、写真におさめた。 佐為が好きだった、二次元の魚が泳ぐ水槽は、角度を変えて、何枚か撮った。 院生の対局場とかを、ふらふらと覗いて、許可が出るところは、カメラを向ける。 あの資料室には、どうしても足が向かなくて、と言うか、行きたくなくて、前の廊下も通らなかった。
「あ」
 帰り際、自動ドア越しに、真っ赤な車が見えて、塔矢門下、そういうことか、と思って。 案の定、緒方さんの姿が見えたので、俺は軽く会釈だけして、何故か、走り出していた。 きっと、佐為のことを、考え過ぎていたから。緒方さんは、ちょっとだけ眉をひそめていて。 どう考えても不自然だし、今度、何か言い訳しよう、走りながら、思った。 角をいくつか曲がった時に、携帯がばかみたいに明るい音楽を鳴らして、俺は止まった。 明日、打とう、夕方、いつもの碁会所で。それは、塔矢からのメールだった。 珍しいな、と思いながら、すぐに、わかった、とだけ、返事をする。 塔矢のメールは、いつも簡潔で、答えやすいから、気に入っていた。 多分、また、推測に過ぎないけれど、塔矢なりに、心配してくれたのかもしれない。 そうでもなければ、碁関係の仕事の前に、あいつが、メールなんてしてくるわけがない。 まあ、理由はどうであれ、突然棋院を撮りに来るなんて、相当おかしいもんな。
「そうだ、あかり」
 ふと思い出して、明日昼頃来いよ、とあかりにメールを打った。 多分数分後に、とても長い、お昼一緒に食べよう、とか、そういう可愛い返事が来るだろう。 それも全部、承諾するつもりで、俺は携帯を鞄に突っ込む。太陽が、赤く、低くなっている。 塔矢と、あかりのおかげで、俺はただ歩いて、駅へと戻った。

 そういえば、一度だけ、俺は試みたことが、あった。
『佐為、ちょっとこっち来い、ここ、座れ』
 自分の部屋で、いつものように俺は白も、黒も手元に置いて、佐為と碁を打っていた。 投了するしかない、と分かって、俺は投げたしたように、ベッドへ寝転んだ。
『負けると気付いたからって、ずるいですよ、ヒカル』
『ちげーよ』
 足をばたばたさせると、佐為も諦めたようで、優しく、俺の横に立った。 違う、座るんだ、ここに、と、起き上がって、自分の隣を叩いて示した。 思った通り、佐為は上手く座れないようで、苦戦しながら、足を曲げていた。
『ちゃんと、座るんだ、俺と、同じように』
 何とか、同じような格好でベッドに腰を下ろした佐為に、微笑んだ。 そこの布は、たわんだり、しわを作ったりは、しなかったけど。俺に、その存在は、確かで。
『手、出して』
 俺が自分の前に、手の平を佐為に向けて出すと、同じように、俺に向けて、手を広げた。 まるで、子供の悪戯に加わるような、見守るような様子で、その表情は、とても美しくて。
『俺、目、瞑ってるから、手の平、合わせて』
 一瞬の、驚いた表情から逃げるように、俺は思い切り目を閉じた。 別に、佐為が俺の言葉に従わなくても、従っても、どっちでも良かった。 どうしても、その時は、そうしたくて。結構、後半のことだったような、気がする。
『はい』
 佐為の声は温かくて、もう随分、一緒にいたから、どんな顔してるのかも、わかった。 きっと左為は本当に、俺と手を合わせたのだと、感じた。それはとても、明確に。 勿論、感触が無いことなんて、わかっていた。だからこそ、目を閉じていた。 それでも、手を合わせている事実は、俺と、佐為にとっては、事実でしかないから。
『通り、抜けないだろ?』
『ええ』
 それは、お互いに、そうしたくないから、そうならないのであって。 でもそれは、とても大切なことなんだと、俺はその時、叫びたいぐらいに、感じた。
『今なら、写真、撮れるかも知れないですね』
 俺はただ、さあな、と、目を精一杯瞑ったまま、笑った。そうしないと、泣きそうだった。 後で、シャッター押すやついねえじゃん、と二人で、ばかみたいに笑って。

 どうしてもっと、手を、延ばさなかったのだろう。
 どうしてもっと、触れようと、しなかったのだろう。
 どうしてもっと、どうしてもっと、どうしてもっと。
 もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと。

 どうしてもっと、いつか消えること、考えなかったんだろう。


 だから俺は昨日、古ぼけたカメラを、佐為と同じ場所で、見付けた時。 これで、佐為がいた場所を、俺といた場所を、時間を、切り取ってやろうと、思ったんだ。 楽しいなあって、楽しかったなあって、ずっと、思って、いたいから。 写真技術なんて、たかだか百年だけど、千年のうち、最後の数年は、ここに、閉じ込めて。 思い出にしたくない、とか、結構子供だし。佐為は、俺の碁に、中に、いるんだから。



 家に帰って、最後に会った時と同じように、ベッドに寝転がって。 あかりから来ていた、それはもう長いメールを読んで、笑って。 下から母さんが、ごはんは、って叫んで、食べるよ、って叫んで。 手だけ床に垂らして、碁石をじゃらじゃら掴んで、離して、戻して。 塔矢に電話して、写真楽しみだな、とか、とてもどうでもいい話をして。 そういえば、明日は院生時代の連中との飲みだった、と、少し焦って。

 明日、あかりと、蔵の、階段の上で、写真撮ろう、とか。 碁会所で、向かい合う、真剣な塔矢を、少し上から撮りたいな、とか。 光は足りるのかな、とか、塔矢怒るよな、とか、いろいろ、考えて。


 俺は泣きながら、額に重いカメラを押し当てて、何度も、シャッターを切った。 フィルムが無くなっても、カチ、カチ、カチ、って、ずっと。