これから、の僕たち


「あれ、何だ、おまえも制服か」
いつもの碁会所、入口の一歩手前で、まだこちらに気付いていないのに、声を掛けた。
久しぶりで、驚いて、と言うか何だか妙に、新鮮で。
よお、と挨拶するのも忘れ、フライング気味だったからか、振り返るまでに僅かな、間。
「進藤、君も」
こちらを向いて立ち止まったところで、ちょうど自動ドアが開いたので、俺は階段を駆け上がる。
久しぶりに見たよ、と塔矢が笑うので、俺も、と言いながら、つられて笑った。
市川さんに挨拶して、荷物を預けて、少し寒いから今日は温かい飲み物がいいな、と我侭を言って。
僕も、と少し慌てたように塔矢が言うので、俺たちは三人で、笑った。
「何かさ、学校で、突然大掃除とか始めちゃってさ」
だからそのまま来たんだ、と言うと、中途半端な時期にやるんだね、と真剣に返してくる。
だよな、と、いつもの定位置に、向かい合って、座りながら。
「衣更えの、ついでかなあ」
「それも、おかしいよ」
ごく自然に、碁筒を脇に置いて、俺は黒石をふたつ握って、碁盤に置く。
ここ最近、学校は、行ったり、行かなかったり、だったので。行事を、把握していなかったのだ。
それは多分、塔矢も同じだろうと思って、何となく、理由を想像してみたりする。
「僕は、掃除じゃないよ」
置いた白石を数えながら、俺をちらっと覗くように見て、俯く。からかっている時の、仕草だ。
ほら、僕は前髪に埃なんてついてないだろ、なんて、自分の前髪をつまんで見せる。
「え、あっ」
埃っぽいのは、さすがに失礼だと思って、電車の中で、窓に写る自分を見てみたりしたのに。
色が似ていて気付かないなんて、切ない。色素の殆ど無い前髪が、久しぶりに恨めしい。
ぱたぱたと、はたいてみても、落ちてこない。頭を振っても、落ちてこない。
「もう、絡まっているんだ」
じたばたする俺に焦れたのか、塔矢は机に左手をついて、右手を延ばして、前髪を引っ張ってきた。
突然で、じっとしていたけど。すっとひいた、指先には、埃なんて、付いてなくて。
「嘘だよ」
なんだその顔、見たことないぞ、そう思いながら、にいっと笑う塔矢を呆然と見詰める。
顔が近付いて、埃の無い指先を吹く振りをして、俺の前髪を勢い良く揺らした。
不覚にも、いや、何だかよくわからないけど、どきどきして、それがとても、悔しくて。
「意味わかんねえ!」
ふううっと、仕返しに、塔矢の前髪が全部後ろに流れてしまうほど、吹き続けた。
塔矢は、進藤変な顔、と笑いながら、頭を左右に振る。さらさらと、髪は元に戻っていく。
俺たちは、ちゃんと中学生みたいに、笑い合って、髪をぐしゃぐしゃにし合って、遊んだ。
「そうしていると、まだ子供みたい、おねえさん安心しちゃうわ」
温かいコーヒーが入ったカップを二つ、両手に持った市川さんが、少し離れたところから言った。
あっ、と小さく声を上げて、立ち上がっていた塔矢は慌てて椅子に座り、姿勢を正す。
「ふふ、進藤君がいると、色んなアキラ君が見れて、楽しい」
俺だけ立ったまま、コーヒーを置いてくれる彼女を見ながら、髪の毛を戻した。
塔矢は恥ずかしいのか、俯いて、同じように髪を梳いている。
何か楽しくて、市川さんがくるりと背を向けた瞬間に、俺はまた、塔矢の前髪をふっと揺らした。
すると塔矢も、ちらっと周りを覗ってから、軽くふう、と息を吹く真似をする。
お互いにとても小さな声で、くすくすと笑って、俺も椅子に戻った。

「あ、そうだ」
熱いコーヒーを、ちびちびと啜りながら、俺はふと思い出して、鞄を膝に持ち上げる。
慣れた仕草でカップを口にあてている塔矢を見て、何か大人だなあ、なんて思って。
「なに?」
それは、俺が言った、そうだ、に対してなのか、少し見惚れてしまっていたことに対してなのか。
多分両方なんだろうな、と思いながら、俺は何も気付かない振りで、写真の束を手渡した。
「ほら、この前の」
先週、二日かけて撮り回った写真たち。初仕事ながら、あのカメラはなかなかの仕事振りだった。
本当は少し前に写真屋さんから返ってきていたのだけど、何となく、鞄に眠っていた。
佐為を、撮ったものばかりだったから、こんな自然な流れじゃないと、出せなくて。
「これが、あかり、さん?」
ほんの少しだけ、この写真が人の目に触れる事実に、どきどきしていると。
一番上の写真を暫らく見詰めた塔矢が、俺にそれを差し出して、聞いた。
塔矢の口から、あかり、なんて名前が出て来るなんて思ってもみなかったから、少し驚いて。
「あ、ああ。おまえよく、覚えてんな」
「君がよく、話題に出すからね」
くす、と笑う塔矢に、俺は当然ながら口篭もる。何と返していいのかわからず、口篭もる。
それは、最初に撮った、理科室での写真。一枚目にしては、なかなかよく撮れていた。
「真ん中が、三谷。前に話したよな?で、隣が小池」
葉瀬中囲碁部、部長だぜ、と言うと、塔矢は、そう、と笑う。
その写真を、束の一番下に滑り込ませて、次に出て来たのは、あかりだけを写したもの。
「可愛いね」
堪え切れないように、塔矢が肩を僅かに震わせて笑い出す。
写真の中のあかりは、それはもう、とてもとても可愛らしく、俺に、笑いかけていた。
塔矢は、確かに、あかりの外見についても、そう言ったのだろうけど、本当のところ、
俺に、こんなに幸せそうに笑いかけている、そのことについて、可愛いと言ったのだ。
こういうこととなると、塔矢はとても意地悪になって、いつも俺を困らせてくれる。
俺は顔を真っ赤にしながら、早く、次の写真いけよ!とか、言ってしまうのだ。
「はいはい」
一枚一枚を、丁寧に眺めて、塔矢のきれいな指が、次々と写真を送っていった。
俺が撮った、自分の写真を見て、ピントがぼけてるじゃないか、と怒る振りをしたり。
棋院の前に、二人で並んでいる写真に、芦原さん、写真上手だねと感心したり。
二人とも、真っ直ぐ前を向いているのに、間の微妙な距離に、笑ったり。
院生たちの写真を、何だか懐かしむように、無言で見詰めてみたり。
最後の方の、俺の部屋で撮った写真は、抜いてあったので、意外と早く見終わってしまう。
「何だか、少ないね」
「あんなでかいカメラ初めてだったからさ、上手く撮れてないの、いっぱいあって」
我ながら、なんて上手い切り抜け方。塔矢はそれに納得して、そう、と言った。
「もうひとつ」
受け取った写真を袋に仕舞って、別の袋から出した新たな写真の束を、差し出す。
その瞬間にまた塔矢が、くす、と音のない笑いを洩らすので、俺はしまった!と手を延ばした。
塔矢は、ひょい、と素早く写真を自分の胸元にあてて、俺の手をかわした。
周りには誰もいないのに、隠すようにして、最初の何枚かをくすくすと笑いながら後ろにまわす。
それらは勿論、じいちゃんちで撮った、あかりとの写真だった。
カメラの持ち主であるじいちゃんは、とても嬉しそうに、何枚も俺とあかりを撮ったのだ。
さすが、というべきか、その写真はとてもきれいに撮れていて、余計に恥ずかしい。
俺が蔵の中で撮った写真は、よく考えれば当たり前だが、真っ暗で何が写っているんだか。
でもどうしても、それは撮る必要のあったものだから、まあ、いいのだけど。
「ああ、あの時か」
ふと、塔矢の手が止まってたので、俺は立ち上がって覗き込む。
「あっ、これ!いい写真だよな!すげえかっこいい!」
石から離れかけた手がきれいだ!とか、この目線がいいんだ!とか、言ってしまってから、気付く。
今俺が、興奮しながら褒めちぎったのは、目の前の、塔矢で。
「ありがとう」
無表情で、俺を見ていた塔矢が突然、何とも言えない顔で俯いたので、困る。
いや実際、いい写真なのだ。塔矢は、佐為を見ているのだ。
あの日この碁会所で、この席で、どうしても佐為の視点で塔矢を撮りたくて。
市川さんに頼んで、俺の後ろから、左斜め後ろの、肩口辺りから、なんて指定して。
俺たちは普通に碁を打っているから、好きな時に撮って欲しい、とお願いした。
そして、この瞬間、市川さんがシャッターを押す瞬間に、塔矢が鋭い目でカメラを睨んだのだ。
びっくりした市川さんが、きゃっ、と声を上げると、慌てて謝っていて、可愛かった。

そして塔矢は、感じたんです、前に感じたものと、同じだったんです、と言った。

「いや、でも、碁を打ってるおまえは、いつも、なかなかかっこいいよ」
変に動揺した心臓が落ち着いてから、素直にそう言った。塔矢はただ、笑っていた。

それから、写真は院生仲間の飲み会へと突入した。みんなはしゃいじゃって、結構、とんでもない。
お腹いっぱいで寝ちゃったフクとか、相変わらず酒癖のよろしくない奈瀬とか、
偶然近くで飲んでた緒方さんに絡まれて、人生とは何ぞや、と語られている伊角さんとか、
一緒に乱入してきたのに、結局フクの隣で寝ちゃってる芦原さんとか、本当に、とんでもない。
越智と、楽しそうに話してる和谷を見て、プロになっても、集まると院生のままだな、と思う。
「楽しそうだね」
いつのまにか俺たちは、出ていた碁石をどけて、碁盤の上に写真を広げていた。
そして、あんまりちゃんと見たことなかったんだけど、と言って塔矢は伊角さんを指差して、
きれいな人だから、気に入られちゃったんだよ、なんて言うので、思い切り笑った。
「あ」
最後の最後に出てきたのは、前の写真とくっついていて気付かなかったのか、見覚えのない写真。
ピントがちゃんと合っていて、構図もとてもきれいだから、やってくれたな芦原さん、と思った。
「いい写真だね、とても」
ふわっと笑った塔矢は、それからさっきの仕返しのように、次々とその写真を褒める。
顔の角度がいい、とか、目にかかった前髪がいい、とか、少し開いた口がいい、とか。
「これは僕が、貰っておくよ」
そう言って、また意地悪そうに笑って、残りの写真をきれいに整えて、俺に差し出した。
結局何も言葉が見付からず、俺の寝顔は、塔矢の手の中でひらひらと、揺れていた。

「あかりさんとは、幼なじみなの?」
もう一回、握りなおした碁石を数えていた塔矢が、ふと口を開いた。
一緒に目で碁石を数えていた俺は、少し反応が遅れて、塔矢の顔を見る。
「幼なじみ、か。まあ、そんなもんかな」
碁筒を交換しながらそう答えると、いいね、と言うので、おまえいないの?と聞いた。
「小さい時から、という点でなら、芦原さんと、緒方さん」
「幼なじみ、かなあ、その二人は」
塔矢の小さい頃、と言うことは勿論、二人も今より若いわけだけど。何か、違うよなあ。
「まあ、何十年後かには、君と僕もそうなるんだろうけどね」
そう言われて、そうか、小学生からの付き合いって言ったら、大人には長いんだろうな、と。
絶対にそう、とは言い切れないけど、多分数年後も、数十年後も、近くにはいる気がするし。
「なんか、面白いな、それ」
「そうだね」
そして、俺たちはいつものようにまた、碁を打ち始める。
この世から碁が無くならない限り、俺にはいろいろ大切なものが確保されている、と思った。

負けました、ありません、とお互いに、何度か言った後、思い出したように。
「卒業式の、予行演習だったんだよ」
制服の理由なんて、もう忘れていたから、意味がわからずにきょとんとしてしまう。
塔矢は笑って、受験前だからね、指揮を高める為らしいんだけど、と付け足した。
入学時から比べると、俺の制服はようやくジャストサイズになった、と言うのに。
きれいに襟が締められた塔矢のそれは、最初から、ちゃんと整っていた気がする。
「それも、相当、おかしいだろ」
二人で笑って、自然に、碁盤に目を戻した。
卒業式が終わっても、あいつが好きだった桜が、また散っても、俺たちはここにいる。
中学を卒業すると、変わらないようで、いろいろなことが変わっていくのだろう。

これから、の僕たちは、大切なものをきっと、いっぱいに抱えながら。
夕飯、食って帰ろうぜ、と言うと、塔矢はとても、優しく頷いた。




20031216